さくら (桜・櫻) 


 一般に桜と呼ばれているものは、バラ科 Rosaceae(薔薇科) サクラ亜科 Prunoideae(梅亞科)に属する、広義のスモモ属(サクラ属) Prunus(梅屬)のうち、
   サクラ亜属 Cerasus(櫻桃亞屬)〔或は独立させてサクラ属 Cerasus〕
の、主として落葉性の樹木の総称。
 日本の山野には、ヤマザクラオオヤマザクラ・カスミザクラ・オオシマザクラマメザクラエドヒガン・チョウジザクラ・ミヤマザクラ・タカネザクラなどが自生するほか、それらの変種・品種などをあわせて約100種類が野生する。
 山地に自生する山桜(やまざくら)にたいして、人里で栽培する桜を里桜(さとざくら)と汎称する。
 ただし植物学上は、サクラの栽培品のうち、オオシマザクラの特徴を持つものをサトザクラ Cerasus lannesiana として分類する。「厳密な意味の生物学的種ではなく、栽培品種のグループとして考えるべきである」
(勝木俊雄『日本の桜』)
 同じ広義のスモモ属 Prunus のうち、
   ウワミズザクラ亜属 Padus(稠李亞屬)〔或は独立させてウワミズザクラ属 Padus〕
の樹木も桜と呼ばれるが、花の形は相当に異なる。 
 和名サクラの語源には諸説がある。
 1.木花之佐久夜毘売
(このはなのさくやびめ,『古事記』)または木花之開耶姫
     
(このはなのさくやびめ,『日本書紀』巻2第9段)のサクヤの転訛とする説(本居宣長『古事記伝』)
 2.幹の皮が横に裂けることから
(榛原益軒)
 3.咲映
(さきはや)の転訛、
などの説があり、定まらない。
 日本では、『万葉集』以来 サクラに桜(櫻)の字をあてるが、これは唐の文学に見られる櫻桃(桜桃,オウトウ,yingtao)を当てたものという。
 ただし、中国では 櫻桃はさくらんぼ
(シナミザクラ P. pseudocerasus の実)またはその木を指す。また、ただ櫻といえば櫻桃を指し、ことさらにその花をいうときは、櫻花(オウカ,yinghua)という。
 源順『倭名類聚抄』(ca.934)に、桜は「和名佐久良」と、朱桜・桜桃は「和名波々加、一云迩波佐久良」と。
 欧米でも、cherry はさくらんぼであり、セイヨウミザクラ P. avium の果実(今日普通にサクランボの名で売られているもの)またはその木である。ことさらにその花をいうときは、cherry blossom という。
 中世以前の桜は、多くはヤマザクラであった。なお、古く奈良には八重ざきのサクラがあったことが知られているが、その実体は不明。今日ナラノヤエザクラと呼ぶものは、別物である。
 今日見られるような多くの品種が作られたのは、江戸時代のことである。野生種から作られた園芸品種をサトザクラと総称し、今日最も多く見るソメイヨシノを初め、200-300の品種があるとされる。 
 『日本書紀』によれば、神宮皇后の宮殿を稚桜宮(若桜宮、わかさくらのみや)、履中天皇の宮殿を磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)といった。
 『日本書紀』巻13に、允恭天皇は愛妃衣通姫(そとおりひめ)を、美しい桜の花にたとえる。

  はな
(花)ぐは(妙)し さくら(桜)のめ(愛)
   こと
(如此)(愛)でば はや(早)くはめ(愛)でず わがめづるこ(子)
 
 桜の花は、『万葉集』には43首に詠われている(文藝譜「万葉集 サクラを詠む歌」を見よ)。数では梅の110首に及ばないが、当時の人々のサクラを愛した様子がうかがわれる。
 それによれば・・・

 サクラは、ツツジとともに、山の春を代表する花だった。

   ・・・ 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね
   龍田道
(たつたぢ)の 岳邊(をかべ)の路に 丹(に)つつじの 薫(にほ)はむ時の
   桜花 開きなむ時に ・・・   
(6/971,高橋虫麿)

 人々は、梅が終れば次は桜と、そのさくのを待ち焦がれた。

   烏梅のはな さきてちりなば さくらばな つぎてさくべく なりにてあらずや
       
(5/829,張氏福子)
   鶯の 木伝ふ梅の 移ろへば 桜の花の 時片設
(かたま)けぬ (10/1854,読人知らず)

 花の盛りには、人々は 山の桜を、また庭に植えた桜の花を観賞し、その下で宴を催し、花をかざ
(挿頭)したりかずら(蘰)にしたりして遊んだ。

   見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 開き艶(にほ)へるは 桜花かも (10/1872,読人知らず)
   桜花 今そ盛りと 人は云へど 我はさぶしも きみ
(君)としあらねば
   わがせこ
(背子)が ふるきかきつ(垣内)の さくらばな いまだふふ(含)めり ひとめみにこね
         
(18/4074;4077, 大伴池主と大伴家持(717-785)の贈答歌。
          
家持は「兼ねて遷任せる旧宅の西北隅の桜樹を詠い云う」)
   今日の為と 思ひて標
(し)めし 足引の 峯の上の桜 かく開きにけり
         
(19/4151,大伴家持。自館に宴する歌)
     をとめらの 挿頭
(かざし)のために 遊士(みやびを)の 蘰(かづら)のためと
     敷き座せる 国のはたてに 開きにける 桜の花の にほひはもあなに
       反歌
     去年の春 あへりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも
         
(8/1429;1430, 若宮年魚麿「桜花歌」)

 雨風には桜を散らすなと願いつつも、散る桜をも愛でた。

   春雨は 甚(いた)くな零(ふ)りそ 桜花 いまだ見なくに 散らまく惜しも (10/1870,読人知らず)
   足ひきの 山の間照らす 桜花 是の春雨に 散り去
(ゆ)かむかも (10/1864,読人知らず)
   春雉
(きぎし)鳴く 高円の邊の 桜花 散りて流らふ 見む人もがも (10/1866,読人知らず)

 また、折った枝に歌を添えて、贈りあった。

   此の花の 一枝
(ひとよ)の内に 百種(ももくさ)の 言そ隠(こも)れる おぼろかにすな
   此の花の 一枝の内は 百種の 言持ちかねて 折らえけらずや
         
(8/1456;1457,藤原広嗣と娘子の贈答歌)

 そして、美しい女性を桜の花に擬え、異性を恋うる気持ちを桜の花に託した。

     物念(おも)はず 道行く去(ゆ)くも 青山を 振り放(さ)け見れば
     つつじ花 香
(にほえ)未通女(をとめ) 櫻花 盛(さかえ)未通女
     汝をそも 吾に依すと云ふ 吾をそも 汝に依すと云ふ ・・・
         
(13/3305,読人知らず。また 13/3309,柿本人麻呂)
   たゆらきの 山の峰の上の 桜花 開かむ春べは 君し思(しの)はむ (9/1776,播磨娘子)
     春去らば 挿頭(かざし)に為むと 我が念ひし 桜の花は 散りにけるかも
     妹が名に 繋
(か)けたる桜 花開かば 常にや恋ひむ いや年のはに
         
(16/3786;3787, 両の壮士の、自殺した少女を悼んで)

 いうまでもなく、『万葉集』時代に歌われた桜は、ヤマザクラである。
 平安時代に入ると、梅に替って桜が愛せられた。
 その象徴的事件は、仁明天皇
(在位833-850)のとき紫宸殿(南殿)の前庭、御階の左に植えられていたウメが、ヤマザクラに替えられたことである(いわゆる「右近の橘、左近の桜」)
 『古今集』(ca.913)には、桜を歌った歌が多い。いずれもヤマザクラであろうという。

   山風に 桜吹まき みだれなむ 花のまぎれに たちとまるべく
(僧正遍昭,816-890)
   世中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし
       
(在原業平,825-880。また『伊勢物語』82段)
   みわたせば 柳桜を こきまぜて 宮こぞ春の 錦なりける
(素性法師,9c.末)
       
(この歌は、明治時代には柴田清照作詞で、小学校唱歌に取入れられた。)
   見てのみや 人にかたらむ 桜ばな てごとに折て 家づとにせむ (同)
   桜花 ちらばちらなん ちらずとて ふるさと人の きても見なくに (惟喬親王,844-897)
   春霞 たなびく山の 桜花 みれどもあかぬ 君にも有かな (紀友則,9c.末-10c.初)
   桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞ立ける
     
(紀貫之,868頃-945頃。913『亭子院歌合』)
   山桜 霞のまより ほのかにも みてし人こそ こひしかりけれ
(同)
   まてというに ちらでしとまる 物ならば 何を桜に 思まさまし (よみ人しらず)
   しゐて行 人をとどめむ 桜花 いづれを道と まどふまでちれ
(よみ人しらず)
   さくら花 ちりかひくもれ おいらくの こむといふなる みちまがふがに
     
(在原業平「ほりかはのおほいまうちぎみの四十賀、九条の家にてしける時によめる」)
   いたづらに すぐす月日は おもほえで 花みてくらす 春ぞすくなき
     
(891,藤原興風「さだやすのみこ(貞保親王)の きさいの宮(藤原高子,842-910)の五十の賀
         たてまつりける御屏風に、さくらの花のちるしたに、

       人の花みたるかた(形)かけるをよめる」)
   山たかみ くもゐに見ゆる さくら花 心の行きて をらぬ日ぞなき
     (素性法師「内侍のかみの 右大将藤原朝臣の四十雅しける時に、
         四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた」)

   別れをば 山のさくらに まかせてん とめむとめじは 花のまにまに
     
(幽仙法師「山にのぼりてかへりまうできて、人々わかれけるついでによめる」)
   山かぜに さくらふきまき みだれなん 花のまぎれに 君とまるべく
     
(僧正遍昭「うりむゐんのみこの舎利会に 山にのぼりてかへりけるに、
      さくらの花のもとにてよめる」)
  ことならば 君とまるべく にほはなん かへすは花の うきにやはあらぬ
 (幽仙法師)
   しひて行く 人をとゞめむ さくら花 いづれをみちと まどふまでちれ
 (よみ人しらず)
   こえぬまは よしのの山のさくら花 人づてにのみ きゝわたる哉
     
(紀貫之「やまとに侍りける人につかはしける」)
   わがこひに くらぶの山の さくら花 まなくちるとも かずはまさらじ
 (坂上是則)
   花よりも 人こそあだに なりにけれ いづれをさきに こひんとかみし
     
(紀茂行「さくらをうゑてありけるに、やうやく花さきぬべき時に、
          かのうゑむける人 身まかりにければ、その花をみてよめる」)


 この時代よりのち、「花」とは桜の花となった。『古今集』に、

   としふれば よはひはおいぬ しかはあれど 花をしみれば 物思ひもなし
      
(藤原良房,804-872。「そめとののきさき(良房の娘にして文徳天皇(在位850-858)の
           皇后明子)
のおまへに 花がめにさくらの花をさゝせたまへるをみてよめる」)
   けふこずば あすは雪とぞ ふりなまし きえずは有とも 花と見ましや
(在原業平,825-880)
   久かたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ (紀友則)
   ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける 
(紀貫之)
   花の色は うつりにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに
      
(小野小町,9c.中葉。最後の三首は、『百人一首』にも取られている)

 「花見」がすでに行われていたことも、『古今集』から知り得る。

   我やどの 花みがてらに くる人は ちりなむのちぞ 恋しかるべき
(凡河内躬恒,10c.初)

 『亭子院歌合』(913.3.13)においては、
  さかざらむ ものとはなしに 桜花 おもかげのみに まだきみゆらん
(凡河内躬恒)
  山桜 さきぬる時は つねよりも 峯の白雲 たちまさりけり
 (藤原興風)
  ほどもなく 散りなんものを 桜花 こゝらひさしく またせつるかな
 (伊勢)
  いそのかみ ふるのやしろの 桜花 こぞみし春の 色やのこれる
 (坂上是則)
  春がすみ たちしかくせば 桜花 人しれずこそ 散りぬべらなれ
 (紀貫之)
  はる風の 吹かぬよにだに あらませば 心のどかに 花は見てまし
 (宇多法王)
  散りぬとも ありと頼まむ 桜花 春はすぎぬと 我にきかすな
 (紀貫之)
  わが心 春の山べに あくがれて ながながし日を けふもくらしつ 
(凡河内躬恒)
  桜散る このした風は さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける
 (紀貫之)
  花桜 いかでか人の 折りてみぬ のちこそまさる 色もいでこめ
 (凡河内躬恒)
  うたたねの 夢にやあるらん 桜花 はかなく見ても やみぬべきかな
  さけりやと 花みにくれば 桜花 いとゞ霞の たちかくすらん
 (藤原興風)
  いもやすく ねられざりけり 春の夜は 花のちるのみ 夢にみえつゝ
 (凡河内躬恒)
  見てかへる 心あかねば 桜花 咲けるあたりに 宿やからまし
 (藤原興風)
  しのゝめに 起きて見つれば 桜花 まだ夜ごめても 散りにけるかな
 (頼基)
  うつゝをば 更にもいはじ 桜花 夢にも散ると みてばうからむ
 (凡河内躬恒)
  花の色を うつしとゞめよ 鏡山 春のくれなん のちもみるべく (坂上是則)
  めに見えて 風はふけども 青柳の なびくかたにぞ 花は散りける
 (凡河内躬恒)
  散りてゆく かたをだに見む 春霞 花のあたりは たちもやらなむ
  桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞたちける
 (紀貫之)
  花見つゝ 惜しむかひなく 今日くれて ほかの春とや 明日はなりなむ
 (紀貫之)
  今日のみと 春を思はぬ 時だにも たつことやすき 花のかげかは
 (凡河内躬恒)

 そのほか、『八代集』等には、

   いそのかみ ふるのやまべの さくら花 うゑけんときを しる人ぞなき
     
(僧正遍照,816-890,「やまとの布留の山をまかるとて」。『後撰集』)
   ひさしかれ あだにちるなと さくら花 かめにさせれど うつろひにけり
     
(紀貫之,「桜の花のかめにさせりけるが散けるを見て中務につかはしける」。『後撰集』)
   春がすみ たちしかくせば 桜花 人しれずこそ 散りぬべらなれ
   散りぬとも ありと頼まむ 桜花 春はすぎぬと 我にきかすな
     (913、紀貫之、『亭子院歌合』)
   きみゝよと たづねてをれる 山櫻 ふりにしいろと おもはざらなん
     
(伊勢,877頃-939頃。『後撰集』)
   ほどもなく 散りなんものを 桜花 こゝらひさしく またせつるかな
     
(913、伊勢、『亭子院歌合』)
   うちはへて 春はさばかり のどけきを 花のこゝろや なにいそぐらん
     
(清原深養父,10c.初,『後撰集』)
   いつのまに ちりはてぬらん 櫻花 おもかげにのみ いろを見せつつ
     
(凡河内躬恒,『後撰集』)
   高砂の 尾上の桜 さきにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
     
(大江匡房,1041-1111。『後拾遺集』『百人一首』)
   花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
     
 (藤原公経,1170-1244。『新勅撰集』『百人一首』)
 
 平安時代には桜を生け花としても観賞した。上記の藤原良房(804-872)の歌・紀貫之(ca.868-ca.945)の歌などを見よ。
 遅れて清少納言『枕草子』(ca.1008?)第4段には、「おもしろくさきたる桜をながく折りて、おほきなるかめ(瓶)にさ(挿)したるこそをかしけれ」とあり、また第23段には「こうらん(勾欄)のもとにあをきかめ(瓶)のおほきなるすゑて、さくらのいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、こうらん(勾欄)のと(外)まで咲きこぼれたる、云々」とある。
 旧暦三月三日には、モモ・ヤナギ・サクラを身につけて遊んだ。『枕草子』第9段に「三月三日、頭の辨の柳かづらせさせ、桃の花をかざしにささせ、桜腰にさしなどしてありかせ給ひしをり」云々とある。
 平安時代に既にあったかもしれないサクラの品種を推測させてくれる記事としては、次のようなものがある。
 藤原基経
(836-891)が亡くなったとき、上野岑雄は次のように詠んだ。

   深草の のべの桜し 心あらば ことしばかりは すみぞめ
(墨染)にさけ (『古今集』巻16)

 『詞花和歌集』
巻一に、

   いにしへの ならの都の やへざくら けふこゝのへに にほひぬるかな
     
(伊勢大輔(いせのたいふ, ?-af.1060)。「一条院(在位986-1011)御時 ならのやへ桜を
        人の奉りけるを 其折御前に侍ければ 其花を題にて歌よめとおほせごとありければ」。
      『小倉百人一首』にも)
 
 平安時代末期には、桜町の中納言とあだ名された藤原成範(1135-1187)が出た。数寄もので、町なかの屋敷にサクラを植え並べて、その中に住んだ。文芸譜(平家物語)を見よ。

 また、西行
(1118-1190)は23歳で出家し、生涯 桜を愛しんだ。

   たぐひなき 花をし枝に さかすれば 桜にならぶ 木ぞなかりける
   ねがはくは 花のもとにて 春しなん その二月
(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ
   吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだみぬかたの 花を尋ねん

などなど、多くの名歌を残したが、その全貌は文芸譜(西行の桜の歌)を見よ。
 吉田兼好(1283?-1353?)『徒然草』139段に、「花はひとへなる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遅ざくら、またすさまじ。虫のつきたるもむつかし」と。
 宮崎安貞『農業全書』(1697)に、「桜は本朝の名物にて、唐其外の国々に稀なる物と見えたり。花の事は云ふに及ばず、山林に多くうへて材木、薪にもすぐれてよし。書籍をきざむ板(はん)にしては是にこゆる木なし。
 うゆる法、実のよく熟し落ちたるを拾ひあつめ置き、赤土にてもよく肥へたる少しねばる土地よし。畦作り菜畠のごとくこしらへ、取りて其まゝ五月蒔きたるよし。又来年二月早くまき、土を厚くおほひ糞水をそゝぎ、尤蒔く時粉糞に合せまきたるは尚よし。上を少し踐み付け置くべし。よく生ゆる物なり。肥地に蒔きて草かじめし、手入を用ゆれば、間一年にては二三尺もふとり、細根よく生ずるゆへ、盛長ことの外安き物なり。薪にしてよくもえ、火つよく、伐るもわるも快し。且又大かたの磽地(やせち)にても生長しふとりさかゆる事速かなり。又若木の時、上皮を剥ぎては、かばと云ひて檜物屋に多く用ひ、其外細工に用ゆる物なり。本木を伐りてもやがてかぶより若葉出でて、程なく栄ゆるなり。花を賞し材を用ゆ。多くうへて国用を助くる良木なり。殊に本朝の名木なれば、子を取り置きて必ずうゆべし。赤土、黒土に宜し。沙地を好まず。吉野、仁和寺、奈良何れも黒土なり。
 八重ざくらは異やうの物なりと兼好法師は書きたれども、今洛陽の名木奈良初瀬の花を見れば世塵を忘れ、忽に世の外に出でて仙境に遊べる心ちぞし侍る。されば、公武の貴人の弄べるはむべなり。神の社の前うしろ、寺院のほとりにまめやかに此木をつぎ種へなば、年を重ねて後何国の地にても大和洛陽の花の景色をうつすべし。其事を司れる人は必ず心を用ゆべし。今民用の事を記する序、はからず心にうかべるまゝ他のあざけりを忘れて、にげなき事を妄りにこゝに書(しる)すものなり」と。
 芭蕉(1644-1694)の句に、

   初桜折しもけふは能
(よき)日なり
   咲
(さき)乱す桃の中より初桜
   両の手に桃とさくらや草の餅
   花の雲鐘は上野か浅草か
   似あはしや豆の粉
(こ)めしにさくら狩
   木のもとに汁も膾(まなす)も桜かな
   さまざまの事おもひ出す桜かな
   しばらくは花の上なる月夜かな

   桜がりきどくや日ゞに五里六里
   花見にとさす船おそし柳原

   よし野にて桜見せうぞ檜の木笠
   花をやどにはじめをはりやはつかほど
   花ざかり山は日ごろのあさぼらけ 
(芳野)
   ゆふばれや桜に涼む波の花
   奈良七重七堂伽藍八重ざくら
   一里は皆花守の子孫かや
    
(「伊賀の国花垣の荘はそのかみ奈良の八重桜の料に付けられけると云伝へはんへれは」『猿蓑』1691)

   声よくばうたはふものをさくら散
(ちる)
   散
(ちる)花や鳥もおどろく琴の塵
   としどしや桜をこやす花のちり
   このほどを花に礼いふわかれ哉

 小坊主や松にかくれて山さくら
 (其角「東叡山にあそふ」,『猿蓑』1691)
  
(幸田露伴評釈に、「上野の境内、士庶賑はひ楽しめる花見の春のさまを、かくなつかしく云取れり。
    小坊主は丁稚なり、雛僧にはあらず」と)

 蕪村
(1716-1783)の句に、

   花に来て花にいねぶるいとま哉
   花守の身は弓矢なきかゞし哉
   花の香や嵯峨のともし火消
(きゆ)る時
   嵯峨ひと日閑院様のさくら哉
   又平に逢ふや御室の花盛
   花ざかり六波羅禿
(かむろ)見ぬ日なき
   なら道や当皈
(たうき)ばたけの花一本(ひとき)
   柏木のひろ葉見するや遅桜
   木
(こ)の下が蹄のかぜや散(ちる)さくら
   花ちりて木間
(このま)の寺と成にけり
   葉ざくらや草鹿
(くさじし)作る兵(つはもの)
   葉桜や碁気になりゆく奈良の京

 また、

   帰り花それにも敷かん筵切
 (其角,『猿蓑』1691)
 
 
   みわたせば、あをやなぎ、
   花桜、こきまぜて、
   みやこには、みちもせに
   春の錦ぞ。
   さおひめの、おりなして、
   ふるあめに、そめにける。
 柴田清煕作詞、J.J.ルソー作曲(メロディーは「結んで開いて」と同じ)。歌詞は、『古今集』所収の素性法師の歌を踏まえる。
 
文部省音楽取調掛編『小学校唱歌集』(1881)より。この唱歌集は 近代日本の劈頭を飾ったもの、「蝶々」「蛍の光」なども含む。
 ところで、古来江戸時代まで、花見の対象とされたものは おもにヤマザクラであった。吉野のサクラ・嵐山のサクラなど、みなこれである。幕末明治に作り出されたソメイヨシノは、20世紀前半には日本の象徴として、広く国内のみならず世界に植え広げられた。今日ほとんどの学校の庭にソメイヨシノが植えられて、入学式を飾っているのも、ソウル(京城)・タイペイ(台北)・チンタオ(青島)・ワシントンなど、世界各地にサクラの花の公園があるのも、この時代の産物である。

   櫻紅葉なるべし峰に社見ゆ (碧梧桐)

   桜、さくら、街のさくらに いと白く 塵埃
(ほこり)吹きつけ けふも暮れにけり
   静かなる 秋のけはひの つかれより 桜の霜葉 ちりそめにけむ
     
 (北原白秋『桐の花』1913)

   土井晩翠「荒城の月」
 
 中国では、古来櫻とは櫻桃であり、中国種のさくらんぼ、ミザクラ(シナミザクラ・カラミザクラ)の果実を指し、引いてはその木を指した。その花は、しばしば観賞の対象とされたが、日本のように熱狂的に愛好されてはいない。中国では、春の盛りを代表する花はモモの花である。
 欧米では、サクラといえばセイヨウミザクラ、すなわちさくらんぼの木である。たとえば、有名なチェーホフの戯曲『桜の園』も、さくらんぼの果樹園を指している。
 これに対して、日本のサクラを欧米に紹介したのはケンペル
(1651-1716)、1712年のことという。なかんづく、ワシントンのポトマック河畔の桜は、きわめて有名。
 この事の起原は、明治四十二年(1909)ワシントン市に於いて、日本に関係深きシドモア女史主唱により日本に好意を有する人々が醵金して日本の桜をば、当時大統領タフト氏夫人の熱心の尽力せられてあるポトマック河畔の新設公園に植ゑて、日本人の精神を紹介しかねて両国民の交情をあつくせむと企てたりしに基づく。時に水野総領事この事を耳にし、そは寧ろわが国より寄贈せば、一層国交をあつくすべしと思ひ、高平全権大使に謀り、その賛同を得て、外務省を経て、東京市にその意を通じたれば、市長尾崎行雄はその事に賛し、東京市の名を以て、樹の苗木十種二千株を送りしが、当時わが国にては樹苗の病虫害につきての調査研究不十分なりし為、米国の農務省昆虫局の精細なる検査を受けたるに病気又害虫寄生等の事ありし為、法規によりて全部焼きすてらるることとなりぬ。この事は日米両国共に遺憾の事とせしが、已むを得ざる事なりき。
 東京市はこれを遺憾とし直ちに農商務省農事試験場に委嘱し、桑名、恩田両技師の周到なる注意の下に桜の苗を育て、明治四十四年
(1911)二月に染井吉野の苗一千株と、八重桜としては
  白雪 有明 御車返 福禄寿 一葉 関山 普賢象
香桜としては
  上香 瀧香 御衣黄
の十種二千株、総計三千株を得、これを翌年二月米国に送りしが、この度は厳重なる害虫検査にも合格してめでたくポトマック公園に植ゑ付くることとなりぬといふ。かくて、大正四年
(1915)に至り米国より東京市に米国特有の花木「ハナミヅキ」の白花のものを贈り、翌年紅花ハナミヅキを贈り、大正七年(1918)カルミヤを寄贈せり」(山田孝雄『桜史』)
 



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