辨 |
モモ Prunus persica(Amygdalus persica, Persica vulgaris;桃・毛桃・普通桃)には、次のような変種・品種を区別することがある。
ハクトウ(白桃) f. alba(單瓣白桃), f. albo-plena(千瓣白桃)
ヘキトウ(碧桃) f. duplex(var.duplex;碧桃 bìtáo) 八重咲、淡紅色
ホウキモモ(箒桃) 'Fastigiata'
ゲンペイ(源平) 'Genpei'(f.versicolor;撒金碧桃)
ゲンペイシダレ(源平枝垂) 'Genpeishidare'
カンパク(寒白) 'Kampaku'
クロカワ(黒皮) 'Kurokawa'
ヒトウ(緋桃) f. magnifica(緋桃 fēitáo) 八重咲、鮮紅色
ベニシダレモモ(紅枝垂桃) 'Pendula'(f.pendula, var.pendula;
垂枝碧桃 chuízhī bìtáo)
f. rubroplena(紅花碧桃) 半八重咲、紅色
キクモモ(菊桃 ゲンペイキクモモ・ゲンジグルマ) f. stellata('Stellata')
ヤグチ 'Yaguchi'
ザンセツシダレ(残雪枝垂) 'Zansetsudhidare'
バントウ(ザゼンモモ) var. compressa(var. platycarpa,
Persica platycarpa;
蟠桃 pántáo・扁桃 biăntáo;E.peento,flat peach)
果実の形が扁平
ジュセイトウ var. densa(壽星桃 shōuxīngtáo;E.Dwarfed peach)
八重咲、矮形 『中国本草図録』Ⅶ/3154
ズバイモモ(ケナシモモ・ツバイモモ・ツバキモモ・アブラモモ・ユトウ・ネクタリン)
var. nectarina(var.nucipersica, Persica nucipersica;
油桃・李光桃・杏桃)
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スモモ属 Prunus(李 lĭ 屬)については、スモモ属を見よ。 |
訓 |
『本草和名』桃、及び『倭名類聚抄』桃子に、「和名毛々」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』25 桃に、「モゝ和名鈔 ミチヨグサ古歌 ミキフルグサ同上」と。 |
Amygdalus は、ギリシア名から。 |
種小名 persica は、ギリシア語 melon persikon(ペルシアの果物)に由来。アレクサンドロス大王の軍が、モモをぺルシアから持ち帰ったと考えたことから。
英名の peach、仏名の pecher、独名の Pfirsich などは、ラテン語の persicum からの転訛。 |
説 |
中国の黄河上流地方、陝西・甘粛にまたがる高原地帯の原産。野生型の果実は直径3cm程度。
早くから食用品種が作られた。黄肉のモモとネクタリンは、6-7世紀にトルキスタンで作られ、7世紀には中国で栽培していた。これは西方はヨーロッパ、さらに新大陸に渡り、今日の欧米系のモモ類の本となった。
日本には古く入り、『古事記』『日本書紀』などに その名が見える。果樹として多く栽培されるようになったのは江戸時代から。そのころのモモは、果実は小さく肉は硬かった。大型でやわらかい肉質のものは、明治以降に導入された。とくに1875年に入った天津水密桃が普及し、さらに新しい品種が改良された。
今日では、果肉の色が黄か白か、核が果肉から離れやすいかどうか(離核・粘核)、熟する時期などにより、あまたの品種が作り出されており、『中国果樹志 桃巻』(2001)には495種を載せる。 |
観賞用の品種も、今日では200種を超える。 |
誌 |
果肉を生で或いは加工して食用にする。 |
中国では、種子を桃仁(トウジン,táorén,とうにん。peach seed)と呼び、薬用にする(中国薬典)。また、サントウ P.davidiana(山桃)・ P.mira(光核桃・藏桃)の種子も、桃仁として用いる。
また、中国では、根・茎・樹皮を それぞれ桃樹根・茎・樹皮と呼び、葉を桃葉と呼び、花を桃花と呼び、自然に落ちた未熟な果実を桃奴と呼び、樹脂を桃樹膠と呼び、いずれも薬用にする。『中薬志Ⅱ』pp.340-343 『全国中草葯匯編』上/662-664
日本では、生薬トウニン(桃仁)は モモ又はサントウの種子である(第十八改正日本薬局方)。 |
中国では、モモはその花と果実の二つにより、きわめて古くから栽培され、親しまれていた。 また、古くからその生命力をたたえられ、辟邪の霊能があると信じられた。 |
後漢(25-220)初・王充(ca.27-100)『論衡』訂鬼に、「『山海経』に又曰く、滄海の中に度朔の山有り。上に大桃木有りて、其の屈盤すること三千里。其の枝間の東北を鬼門と曰う。万鬼の出入する所なり。上に二神人有り、一は神荼(シント,shentu;シンジョ,shenshu)と曰い、二は鬱塁(ウツリツ,yulü)と曰う。万鬼を閲領するを主(つかさど)る。悪害の鬼は、執うるに葦索を以てし、以て虎に食わしむ。是に於いて、黄帝 乃ち礼を作り、時を以て之を駆り、大桃人を立て、門戸に神荼・鬱塁と虎を画き、葦索を懸け、以て凶魅を禦ぐ」と。
この條は、現行本『山海経』には無し。ほかに衛宏(1c.)『漢旧儀』に引用されたものが、賈思勰『斉民要術』10・『太平御覧』967 などに又引きされている。また、蔡邕(133-192)『独断』上には、引用書名を記さないが、ほゞ同内容の一文が載る。
「『漢旧儀』に曰く、東海の内、度朔山上に桃有り、屈盤すること三千里。其の卑枝の間、東北を鬼門と曰う。万鬼の出入する所なり。上に二神人有り、一は荼と曰い、二は鬱塁と曰う。万鬼を領するを主る。鬼の人を悪害する者は、執うるに葦索を以てし、以て虎に食わしむ。黄帝 法(のっと)って之を象り、因りて桃梗を門戸に立て、上に荼・鬱塁の 葦索を持ち 以て凶鬼を禦ぐを画き、虎を門に画きて、当に鬼を食わしめんとす」と(『斉民要術』10引)。 |
「『漢旧儀』に曰く、『山海経』称す、東海の中に度朔山あり。山上に大桃有りて、屈盤すること三千里。東北の間、百鬼の出入する所なり。上に二神人有り、一は神荼と曰い、二は鬱塁と曰う。万鬼を領するを主る。悪害の鬼は、執うるに葦索を以てし、以て虎に食わしむ。黄帝、乃ち大桃人を門戸に立て、神荼・鬱塁と虎・葦索を画きて、以て鬼を禦ぐ」と(『太平御覧』967引)。 |
「海の中、度朔の山有り。上に桃木有り、蟠屈すること三千里。卑枝の東北、鬼門有り、万鬼の出入する所なり。神荼と鬱塁の二神、其の門に居りて、諸鬼を閲領するを主る。其の悪害の鬼は、執うるに葦索を以てし、虎に食わしむ。故に十二月歳竟、常に先臘の夜を以て之を逐除するや、乃ち荼・塁を画き、并びに葦索を門戸に懸け、以て凶を禦ぐなり」(蔡邕『独断』上)。 |
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『詩経』国風・周南・桃夭(とうよう)に、「 桃の夭夭(えうえう)たる、灼灼(しやくしやく)たる其の華、之(こ)の子于(ここ)に帰(とつ)ぐ、其の室家に宜(よろ)しからん」と。
『詩経』国風・衛風・木瓜(ぼくか)に「我に投するに木桃を以てす」とある木桃は、一説にマボケ C. cathayensis という。ボケを見よ。 |
『爾雅』釈木に、「楔(カツ,xiē)、荊桃(ケイトウ,jīngtáo)。〔今の桜桃なり。〕 旄(ボウ,máo)、冬桃。〔子、冬熟す。〕 榹桃(シトウ,sītáo)、山桃。〔実は桃の如くして小、解核せず。楔、音は戞(カツ,jia)。榹(シ,sī)、音は斯(シ,sī)〕〈疏。楔荊桃至山桃。釈曰別桃類也。楔、一名荊桃。郭云、今桜桃。広雅云、桜桃含桃也。月令仲夏云、羞以含桃、是也。桃子冬熟者、名旄。生山中者、名榹桃。郭云、実如桃而小、不解核。〉」と。
すなわち、「楔・荊桃・含桃は同じもの。旄・冬桃は、実が冬になって熟すもの。榹桃・山桃は山に生ずるもの、実は桃に似ているが小さく、核が割れない」と。楔・荊桃・含桃は今のシナミザクラ Cerasus pseudocerasu。山桃は P. davidiana、実は肉が薄くて食えない。冬桃は、今日の中国にも11・12月に熟する品種がある。
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『礼記』「月令」二月に、「桃 始めて華さく」と。
『大戴礼』「夏小正」正月に「梅・杏・杝桃(いたう・ちたう)、則ち華さく。杝桃は山桃なり」と、また六月に「桃を煮る。〔桃なる者は、杝桃なり。杝桃なる者は、山桃なり。煮て以て豆実と為すなり。〕」と。 |
『礼記』「内則」に、周代の君主の日常の食物の一として桃を記す。また、桃諸・梅諸とあるものは、モモの漬物とウメの漬物という。
なお、モモの実を食うために調えることを、「膽(タン)す」というとある。膽(胆,きも)は苦いものであるから、モモの実のうちから苦いものを取り除くことを言うのだと説く。 |
『西京雑記』に、「上林苑に、秦桃・桜桃・緗核桃・霜桃〔霜下りて、乃ち食うに堪う〕・金城桃・胡桃・綺葉桃・含桃・紫文桃有り」と(『太平御覧』967引)。 |
「桃栗三年、柿八年」というが、中国でも三年で実をつけるといわれた。
ただし中国では、モモの木は衰えが早いことが注意されていた。
賈思勰『斉民要術』(530-550)「種桃」に、「桃、性 皮 急なり。四年以上は、宜しく刀を以て其の皮を豎■{麗偏に立刀}(じゅり,竪に割き破る)すべし。七八年にして便ち老い、十年にして則ち死す」と。
劉基(1311-1375)『多能鄙事』7に、「桃、三年にして実り、五にして盛んに、七にして衰え、十にして死す。六年に至り、刀を以て其の皮を■{釐の里に刀を代入}(り,割き破る)し、膠を出でしめば、多く五年を活かすべし」と。 |
陶淵明に「桃花源の記」がある。 |
李白「山中問答」に、
余に問ふ 何の意か碧山に棲むと
笑いて答へず 心 自ら閑なり
桃花流水 窅然(ようぜん)として去る
別に 天地の 人間(じんかん)に非ざる有り
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崔護の詩に、
去年の今日 此の門の中
人面 桃花 相映して紅なり
人面は知らず 何の処にか在る
桃花は旧に依り 春風に笑ふ
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日本では、『古事記』の神話に、伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)が 伊邪那美(いざなみ)の命を黄泉(よみ)の国に追い往き、やがて追われて逃げ帰るとき、「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に逃げ返りき。爾(ここ)に伊邪那岐の命、其の桃子に告(の)りたまひしく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆるうつしき青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)の命と号(い)ひき」とある。
『日本書紀』巻一に引く一書第9に、同じ場面を、「是の時に、雷等(いかづちども)皆起ちて追ひ来(きた)る。時に、道の辺(ほとり)に大きなる桃の樹(き)有り。故(かれ)、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に擲(な)げしかば、雷等、皆退走(しりぞ)きぬ。此(これ)桃を用(も)て鬼を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり」と。 |
『日本書紀』22推古天皇24年に、「春正月に、桃李(ももすもも)、実(みな)れり」と。
『同』22推古天皇34年に、「春正月に、桃李、花さけり」と。
『同』22推古天皇36年に、「夏四月壬午の朔辛卯に、雹(あられ)零(ふ)る。大きさ桃子(もものみ)の如し。壬辰に、雹零る。大きさ李子(すもものみ)の如し。春より夏に至るまでに、旱(ひでり)す」と。
『同』23舒明天皇10年に、「九月に、霖雨(ながあめ)して、桃李花さけり」と。
『同』24皇極天皇2年に、「二月の辛巳の朔庚子に、桃の花始めて見ゆ」と。 |
『万葉集』に、
桃の花 紅色に にほひたる ・・・ (19/4192,大伴家持)
はしきやし 吾家(わぎえ)の毛桃 本を繁み 花のみ開きて 成らざらめやも
(7/1358,読人知らず)
日本(やまと)の 室原(むろふ)の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずは止まじ
(11/2834,読人知らず)
吾が屋前(やど,にわ)の 毛桃の下に 月夜さし 下心よし うたてこの頃
(10/1889,読人知らず)
向つ峯(を)に 立てる桃の樹 成らむかと 人そ耳言(ささや)く 汝が情(こころ)ゆめ
(7/1356,読人知らず)
桃花褐(つきぞめ;ももぞめ)の 浅らの衣 浅らかに 念ひて妹に あはむものかも
(12/2970,読人知らず)
桃李を併称する例は、『万葉集』巻19/4139;4140 に、大伴家持(717-785)が「天平勝宝二年(750)三月一日の暮、春の苑の桃李の花を眺矚して作れる歌」が載る。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照(したで)る道に 出で立つをとめ
吾が園の 李の花か 庭に落(ふ)る はだれの未だ 遺りたるかも
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みちよ(三千世)へ(経)て なるといふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
(913、坂上是則、『亭子院歌合』)
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平安時代には、旧暦三月三日にモモ・ヤナギ・サクラを身につけて遊んだ。清少納言『枕草子』第9段に「三月三日、頭の辨の柳かづらせさせ、桃の花をかざしにささせ、桜腰にさしなどしてありかせ給ひしをり」云々とある。
ほかには、
清少納言『枕草子』第4段「三月三日は」
西行(1118-1190)『山家集』に、
もゝぞの(桃園)の 花にまが(紛)へる てりうそ(照鷽)の
む(群)れたつをり(折)は ち(散)るこゝちする
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両の手に桃とさくらや草の餅 (芭蕉,1644-1694)
桃の木の其葉ちらすな秋の風 (同)
さくらより桃にしたしき小家哉 (蕪村,1716-1783)
家中衆(かちゅうしゅ)にさむしろ振ふもゝの宿 (同)
雨の日や都に遠きもゝのやど (同)
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ただひとつ惜しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり
(1933,斎藤茂吉『白桃』)
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