辨 |
さまざまな樹種、それも主として雑木(コナラ・シデなどの落葉広葉樹)からなる林。
|
訓 |
有用な材木を提供するヒノキ・スギなどの針葉樹(古代には「真木(まき)」と呼んだ)に対して、薪炭材あるいは椎茸栽培の粗朶程度にしか用いることができない樹木、たとえばコナラ・シデ・クヌギ・ハンノキなどの落葉広葉樹を、雑木(ぞうき,ぞうぼく)と呼ぶ。 |
説 |
武蔵の国の地の、人手が入る前の原風景は、カシ・シイなどの常緑広葉樹林、いわゆる「照葉樹林」であったという。人の手が入り、林を焼き払い、開墾して、ススキ型草原「武蔵野」が現出した。『万葉集』時代には、武蔵の国は一面のススキが原であったらしい。ススキが原は、火入れなどによる維持が途切れると、森林への遷移が始まる。「武蔵野」のところどころに、二次林として成立したのが、コナラ・アカマツ・エゴノキ・クヌギ・クリ・イヌシデなどからなる「雑木林」であった。
武蔵野の雑木林は、人々から里山として保護・維持され、落葉は堆肥とされ、粗朶は薪に、二三十年に一度伐られる材は炭にされた。このようにして、武蔵野の雑木林は、近年まで安定して維持されてきた。
ただし、この地域の極相林は常緑広葉樹林であり、人手から離れ、放って置かれた雑木林は、やがて照葉樹林に遷移するであろう、という。 |
「これにら対して現在、冷温帯下部から暖温帯に広くできているコナラ・クリ・アカシデ・イヌシデ・ムクノキなどの落葉樹林がある。これらは本来山地性であったが、照葉樹林の人為による破壊が広がるにつれて、平地を生育域とするようになったと考えられる。
武蔵野の自然の象徴とされている雑木林は、ほとんどこのような二次林である。その典型として保存される平林寺(埼玉県新座市)の境内林は、コナラを優先種とし、イヌシデ・クリ・クヌギ・エゴノキなどを交える。低木も同じような種類があり、林床はアズマネザサが優先する。
武蔵丘陵(埼玉県)での観察(田村ほか、1973)によると、丘陵上部にはアカマツ林が、丘陵下部にはコナラ林やアカシデ林が成立する。コナラとアカシデとは、萌芽力や耐陰性に若干の差があり、伐採の程度の低い、北向きの斜面や谷あいにはアカシデ林が成立しやすい。関東南部では、アカシデに代わってイヌシデが多く生育する。
斜面下部や平坦な沖積低地の周りなど、やや水分の多い土地には、クヌギ林が成立しやすい、いわゆる雑木林は人為的な影響が強い途中相であるため、いろいろな種が入り込み、群落組成は一定していない。
下刈りが行われないでいると、低木層にはそこの潜在自然植生を示す種類、たとえばアカガシ・アラカシ・スダジイ・ツバキなどが現れてくる。しかし、よく発達した雑木林では、主要木の落葉樹の樹齢も長い上にこれまで林床に手が加わっていたこともあって、落葉樹林から照葉樹林への遷移をはっきり示すような林相は少ない。落葉樹林はそれなりに安定した林となっている。
落葉している期間は林内は明るいが、新葉が出揃うころから林内照度は急激に低下する。林床には、春になってから高木層の開葉前の短い期間に、地上部の生活を全うしようとする、いわゆる春植物が群落をつくる。カタクリ・ニリンソウ・イチリンソウ・アズマイチゲ・アマナなどがその例である。」(沼田真・岩瀬徹『図説 日本の植生』1975) |
誌 |
ススキが原であった「武蔵野」が 一面に「雑木林」に変移したのは、必ずしも自然の遷移だけによるものではないらしい。すなわち、江戸の町が発展するにつれ、これに薪炭を供給するために雑木の維持と炭焼きが広く行われるようになったためだという。 |
「さらに(植生の)保全の思想の中には、かならずしも原始的自然や極相林でなくても、人間の、あるいは動物の生活環境として十分に役に立つという考え方がある。
たとえば、かつては各地に薪炭材として利用された林が多かった。これは三〇年くらいの間隔をおいた伐採によって、遷移のある段階に保たれた二次林である。武蔵野の雑木林などもその形の一つである。しかし近年薪炭の利用が少なくなるにつれて、このような林はヒノキ・スギなどの造林地になったり、あるいは他の用地に転用された。」(沼田真・岩瀬徹『図説 日本の植生』1975) |
国木田独歩(1871-1908)は、1896秋-1897春の間、「渋谷村の小さな茅屋(あばらや)」に住んだ。このころ周辺には「雑木林」がひろがっていたので、独歩はその印象を短編小説「今の武蔵野」として発表(1898)、次いで小説集『武蔵野』(1901)に収めた。この小説はきわめて広く読まれたので、これより武蔵野は雑木林、という観念が広く行き渡った。 |
新座市野火止にある平林寺の境内の雑木林は、昔の姿を保つものとして昭和43年(1968)に国の天然記念物に指定された。 |