うめ (梅) 

学名  Armeniaca mume (Prunus mume)
日本名  ウメ 
科名(日本名)  バラ科
  日本語別名  コウブンボク(好文木)、コノハナ(木花)、カザミグサ、ハツナグサ、カゼマチグサ
漢名  梅(バイ,mei) 
科名(漢名)  薔薇(ショウビ,qiangwei)科
  漢語別名  干枝梅(カンシバイ,ganzhimei)、酸梅(サンバイ,suanmei)、紅梅花(コウバイカ,hongmeihua)
英名  Japanese apricot
2005/02/21 跡見学園女子大学新座キャンパス
2004/12/31 同上 2005/03/04 同左
2005/05/28 新座市中野
2005/06/23 新座市中野 2005/07/11  三芳町竹間沢
 スモモ属(サクラ属) Prunus(梅屬)の植物については、スモモ属を見よ。
 ウメ亜属
(アンズ亜属)(杏亞属)〔或はウメ属(アンズ属) Armeniaca〕について、及びウメの品種については、ウメ亜属を見よ。


 中国では、古くは呆・槑・某・楳などの字を用いたが、いずれも梅の異体字。
 『爾雅』釈木に、「梅、柟(ゼン・ネン,ran)」とある。
 は枏と同字、ダン・ナン,nan と読めばクスノキ科の楠木 Phoebe nanmu、ゼン・ネン,ranと読めばウメを指す。
 日本では、深江輔仁『本草和名』(ca.918)梅実に、「和名牟女」と。源順『倭名類聚抄』(ca.934)梅に、「和名宇女」と。すなわち、『万葉集』では、宇女・牟女と書く。
 
小野蘭山『本草綱目啓蒙』25
(1806)梅に、「ムメ萬葉集 ウメ和名鈔 コノハナ以下古歌ノ名 ハナ ニホヒグサ カゼマチグサ カザミグサカバヘグサ ミドリノハナ カトリグサ ハツナグサ ツケグサ イヒナシノハナ 花」と。
 和名ウメの語源については諸説がある。一、漢名「梅 mei」の転訛(馬 ma がウマになったのと同様)。二、渡来時の薬品としての名「烏梅 wumei」の転訛(賀茂真淵)。三、「梅」の朝鮮音マイの転訛。四、「熟む実」の転訛(新井白石・貝原益軒)、など。
 江戸時代にはムメと呼ばれており、学名はこれに基づく
(シーボルト&ツッカリーニ『日本植物誌』)



 中国原産、四川省・湖北省の山地に野生品が自生する。今日では各地で栽培されるが、 ほぼ淮河を境として、それより南にはウメが、北にはアンズが分布する。
 昔の中国人は、ウメとアンズの区別がつかなかったが、賈思勰は「按ずるに、梅は 花 早くして白く、杏は 花 晩くして紅し。梅は 実 小にして酸く、核 細文有り。杏は 実 大にして甜く、核 文采無し。白梅は食及び齏を調うるに任うも、杏は則ち此の用に任えず。世人或いは辨つこと能わず、言いて梅・杏 一物と為すは、之を失うこと遠きなり」と看破した(『斉民要術』4 種梅杏)
 日本には、奈良時代以前に薬木として渡来したと考えられている。
 ヨーロッパには、17世紀末にケンペルにより伝えられた。




 中国では、三千年を超える栽培の歴史がある。
 古くは もっぱら果実を調味料として用い、花を鑑賞するようになるのは漢代からだが、とくに愛好されるようになったのは宋代以後。
 中国では、日本で言ううめぼしを白梅と呼び、調味料にする。
 果実を燻製にしたものを烏梅(ウバイ,wumei。
「黒い梅」)と呼び、薬用にする。『中薬志Ⅱ』pp.170-172
 また、var. viridicalyx(綠萼梅)の花蕾を白梅花と呼び、薬用にする。
『中薬志Ⅲ』pp.315-316 
 「塩梅(エンバイ,あんばい)」の語は、最古の古典に見える。
 『書経』説命下に、君臣の間柄を説いて、「若
(も)し和羹(ワコウ)を作らば、爾(なんじ)は惟(こ)れ塩梅(エンバイ,調味料の塩と酢)〔もし味のよい汁を作るとするならば、汝は塩と酢に当ることになる〕」と(小野沢精一訳)
 『春秋左氏伝』昭公20年に、和と同との違いを論ずる中に、「和は羹
(あつもの)の如し。水火醯醢(ケイカイ,酢と塩辛)塩梅(エンバイ,梅びしお)以て魚肉を烹(に)云々〔心の和合するというのは、吸い物を作るようなものです。水・火・酢・塩辛・梅びしおを使って魚や肉を煮つけ、云々」と(鎌田正訳)
 『詩経』国風・召南・摽有梅(ひょうゆうばい)に、「(なげう)つに梅有り、其の実七つ、我を求むる庶士、其の吉なるに迨(およ)べ」云々と。中国では、「歌合戦やかがいのときに果物を対手に投げつける習俗があった」(白川静)
 『大戴礼』「夏小正」正月に「梅・杏・杝桃(いたう・ちたう)、則ち華さく。〔杝桃は山桃なり。〕」と、また五月に「梅を煮る。〔豆実と為すなり。〕」と。
 『礼記』「内則」に、周代の君主の日常の食物の一として梅を記す。また、桃諸・梅諸とあるものは、モモの漬物とウメの漬物という。
 また、新鮮な牛の肉を薄切りにして筋を取り、一晩酒に漬け、醢(カイ,
しおから)若しくは醯■{酉偏に意}(ケイイ,うめ酢)に付けて食う料理を、漬(シ)という、と。
 早くから春の花の代表とされ、百花に魁(さきが)けてさくので花魁(かかい)と呼ばれた。
 
劉向(79B.C.-8B.C.)『説苑(ぜいえん)』奉使篇に、「一枝の梅を執って、梁王に遺(おく)る」と(また漢嬰『韓詩外伝』巻8)。これを踏まえ、隆宋(420-479)・陸凱「贈范曄」に、

   花を折って駅使に逢ひ
   隴頭
(ろうとう,長安の西の隴山のほとり)の人に寄与す
   江南
(南朝の都 建康) 有る所無し
   聊
(いささ)か一枝の春を贈る

 これより、梅を「一枝の春」と呼ぶ。
 また、王十朋(1112-1171)「江梅」に、「預報春消息、花中第一枝」とあり、「春消息」、ひいては「報春花(春の知らせをもたらす花)」とも呼ばれた。
 早春の花として、梅は若い女性のイメージと結びついていた。
 たとえば、宋・武帝(在位420-422)の女(ムスメ)・寿陽公主の額に 梅花が落ちて拭い去りがたかったことから「梅花粧」が始まったという。
 李白(701-762)の「長干行」は、幼馴染みと結婚した女性が旅に出た夫を思う歌だが、その少女時代を回想して「郎は竹馬に乗って来り、牀を繞って青梅を弄す」とある。すなわち竹が男性を象徴しているのに対し、梅は女性を象徴している。
 宋の詩人たちは、梅の花を氷肌・玉骨と詠ったが、これも美人の姿に見立てたもの。
 一方、梅は、文人たちにとっては読書と学問に結びついていた。晋・武帝(在位265-290)が文を好めば梅が花開き、学を廃すれば開かなかったという故事に基づき、梅の一名を好文木という。
 林逋(和靖、967-1028)は、妻帯せず、杭州西湖の孤山に隠棲し、「梅妻鶴子」の一生を送った。

   衆芳揺落して 独り喧妍
(けんけん)たり
   風情を占め尽して 小園に向ふ
   疏影横斜して 水 清浅
   暗香浮動して 月 黄昏
   霜禽 下らんと欲して 先ず眼を偸
(ぬす)
   粉蝶 如
(も)し知らば 合(まさ)に魂を断つべし
   幸に微吟の相ひ狎
(な)る可き有り
   須
(もち)ひず 檀板(紫檀の拍子木)の 金尊(金の酒樽)を共にするを
     
(林逋「山園の小梅」)
 
 日本では、梅は『古事記』(712)・『日本書紀』(720)・『風土記』(early 8c.)には見られない。
 梅の最古の記録は、
葛野王
(かどののおう、669-705)が作った「春日鶯梅を翫(はや)す」詩(『懐風藻』)

 『万葉集』には、119首に詠われている。作者はおおむね上流の人々で、一般庶民は比較的少ない。また、柿本人麻呂
(active ca.689-700)には、ウメを詠った歌がない。
 天平2年
(730)正月13日(陽暦に換算すれば2月9日)、大宰府の帥(そち)大伴旅人(665-731)は 観梅の宴を開いた。その時の「梅花歌三十二首並に序」が、『万葉集』巻5/815-846 に載る。人々はウメの花をかざし、シダレヤナギを蘰(かづら)にして遊んだ。

   烏梅のはな いまさかりなり 意
(おも)ふどち
      かざしにしてな いまさかりなり
(820,葛井大夫)
   あをやなぎ 烏梅とのはなを を
(折)りかざし
      の
(飲)みてののちは ち(散)りぬともよし (821,沙弥満誓)
   烏梅のはな さきたるその
(園)の あをやぎを
      かづらにしつつ あそびくらさな
(825,土師百村)
   ひとごとに を(折)りかざしつつ あそべども
      いやめづらしき 烏梅
(うめ)のはな(花)かも (828,丹氏麿)
   烏梅のはな を
(折)りてかざせる もろひと(諸人)
      けふ
(今日)のあひた(間)は たぬ(楽)しくあるべし (832,荒氏稲布)
   はるやなぎ かづらにを
(折)りし 烏梅のはな
      たれ
(誰)かうかべし さかづき(杯)のへ(上) (840,村氏彼方)
   烏梅のはな を
(折)りかざしつつ もろひとの
      あそぶをみれば みやこ
(都)しぞも(思)(843,土師御道)

上の828の歌に「いやめづらしき烏梅の花」とあることから、当時まだウメは新奇なものであったとする説がある。人々は、散る梅の花びらを降る雪に喩え、鶯の鳴声を詠いこんだ。

   わがその(園)に うめ(梅)のはな(散)る ひさかたの
      あめ
(天)よりゆき(雪)の ながれくるかも (822,大伴旅人)
   はる
(春)のの(野)に きり(霧)たちわたり ふるゆき(雪)
      ひと
(人)のみるまで 烏梅のはなちる (839,田氏真上)
   うぐひすの をと
(音)きくなべに 烏梅のはな
      わぎへ
(吾家)のその(園)に さきてちるみゆ (841,高氏老)
   わがやどの 烏梅のしずえ
(下枝)に あそびつつ
      うぐひすなくも ち
(散)らまくを(惜)しみ (842,高氏海人)

 散る梅の花びらを降る雪に喩えているから、このウメは白梅であったはずだという。
 『万葉集』には、梅は全部で119首に詠いこまれており、ハギに次いで多い。

   今日ふりし 雪に競ひて 我が屋前
(やど,にわ)
      冬木の梅は 花開きにけり
(8/1649,大伴家持)
   吾がせ
(背)子に 見せむと念ひし 梅の花
      それとも見えず雪のふれれば
(8/1426,山部赤人)
   梅の花 ふり覆ふ雪を 裹
(つつ)み持ち
      君に見せむと 取れば消
(け)につつ (10/1833,読人知らず)
   去年
(こぞ)の春 いこ(掘)じて殖ゑし 吾が屋外(やど)
      若樹の梅は花咲きにけり
(8/1423,安部広庭)
   久方の 月夜を清み 梅の花 心開けて 吾が念へるきみ
(君)
      
 (8/1661,紀少鹿女郎)
   引き攀じて 折らば落
(ち)るべみ 梅の花
      袖にこきいれつ 染まば染むとも
(8/1644,三野石守)
   酒杯に 梅の花浮け 念ふどち 飲みての後は 落りぬともよし
      
(8/1656,大伴坂上郎女)
   ももしきの 大宮人は 暇あれや
      梅を指頭
(かざ)して 此間(ここ)に集へる (10/1883,読人知らず)

 ウメがさかないことを少女が未成熟なことに喩えて、

   春の雨は いやしきふるに 梅の花 未だ咲かなく いと若みかも
   うら若み 花咲き難き 梅を殖ゑて 人のことしげみ 念ひそ吾がする
   春雨を 待つとにしあらし 吾が屋戸の 若木の梅も 未だ含めり
      
(4/786;788/792,大伴家持。藤原久須磨による娘への求婚を断る歌)

 梅が実ることを恋の成就に喩えて、

   妹が家に さきたる梅の 何時も何時も 成りなむ時に 事は定めむ
   妹が家に さきたる花の 梅の花 実にし成りなば 左も右
(かく)もせむ
      
(3/398;399,藤原八束)
 
 平安時代に入ると、春の花の代表としての地位はサクラに譲られ、紫宸殿の庭に植えられていた梅は、村上天皇天徳4年(960)山桜に替えられた。
 それでも、ウメそのものへの愛好は引き続いていた。
 『古今集』には、

   梅花 それとも見えず 久方の あまぎる雪の なべてふれれば
 (よみ人しらず)
   花の色は 雪にまじりて 見えずとも かをだににほへ 人のしるべく
(小野篁)
   梅のかの ふりおける雪に まがひせば たれかことごと わきてをらまし
 (紀貫之)
   雪ふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれを梅と わきてをらまし
 (紀友則)
   梅がえに きゐる鶯 春かけて なけどもいまだ 雪はふりつゝ

   折りつれば 袖こそにほへ 梅花 ありとやこゝに うぐいすのなく

   色よりも かこそあはれと おもほゆれ たが袖ふれし やどの梅ぞも
   やどちかく 梅の花うゑじ あぢきなく まつ人のかに あやまたれたり
   梅花 立ちよる許 ありしより 人のとがむる かにぞしみぬる (以上、よみ人しらず)
   鶯の 笠にぬふてふ 梅花 折りてかざさむ 老かくるやと
 (源常)
   よそにのみ あはれとぞみし 梅花 あかぬ色かは 折てなりけり
(素性法師)
   君ならで 誰にか見せむ 梅花 色をもかをも しる人ぞしる
(紀友則)
   梅花 にほふ春べは くらぶ山 やみにこゆれど しるくぞありける (紀貫之)
   月夜には それともみえず 梅花 かを尋てぞ しるべかりける (凡河内躬恒)
   春の夜の やみはあやなし 梅花 色こそ見えね かやはかくるる
 (同)
   人はいさ 心もしらず ふる里は 花ぞむかしの かににほひける
     
(紀貫之「はつせにまうづるごとに やどりける人の家に、ひさしくやどらで、
         程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりは
         あると いひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる」)

   春ごとに ながるゝ河を 花とみて をられぬ水に 袖やぬれなん
 (伊勢)
   年をへて 花のかゞみと なる水は ちりかゝるをや くもるといふらむ
 (同)
   暮ると明くと 目かれぬものを 梅花 いつの人間に うつろひぬらん
 (紀貫之)
   むめがかを 袖にうつして とゞめてば 春はすぐとも かたみならまし
     
 (よみ人しらず)
   ちるとみて あるべき物を 梅花 うたてにほひの 袖にとまれる
 (素性法師)
   ちりぬとも かをだにのこせ 梅花 こひしき時の 思ひいでにせん
     
 (よみ人しらず)
   春くれば やどにまづさく 梅花 きみがちとせの かざしとぞみる
     
(紀貫之「もとやすのみこ(本康親王)の七十の賀のうしろの屏風によみてかきける」)
   あをやぎを かたいとによりて うぐひすの ぬふてふかさは むめの花がさ
     
(神あそびのうた)
   梅花 さきてののちの 身(実)なればや すき物とのみ 人のいふらん (よみ人しらず)
   あなうめに つねなるべくも みえぬ哉 こひしかるべき かはにほひつゝ
     
(よみ人しらず、物名、うめ)
   わがそのの 梅のほつえに 鶯の ねになきぬべき こひもする哉
 (よみ人しらず)
   色もかも むかしのこさに にほへども うゑけん人の かげぞこひしき
     
(紀貫之「あるじ身まかりにける人の家の花をみてよめる」)
   むめの花 みにこそきつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる
 (よみ人しらず)

 『八代集』などに、

   きつゝのみ 鳴く鶯の ふるさとは 散りにし梅の 花にぞありける
     (913、凡河内躬恒、『亭子院歌合』)
   やどちかく うつしてうゑし かひもなく まちどほにのみ にほふ花かな
     
(藤原兼輔「前栽に紅梅をうゑて又の春おそく咲きければ、『後撰集』」)
   うめの花 折ればこぼれぬ わが袖に 匂ひか(香)うつせ 家づとにせん
     
(素性法師、『後撰集』)
   梅花 今はさかりに なりぬらん たのめし人の おとづれもせぬ
     
(敦固親王「あひしりて侍ける人の家にまかれりけるに、梅の木侍けり。
     
 この花さきなむ時かならずせうそこせむといひ侍けるを、
     
 ことなく侍ければ」、『後撰集』)
   ふる雪は かつもけ
(消)ななん 梅花 ちるにまどはず 折てかざゝむ
     
(紀貫之「かれこれまどゐして さけらたうべけるまへに、
           梅の花に雪のふりかゝりけるを」、『後撰集』)

   春ごとに さきまさるべき 花なれば ことしをもまた あかずとぞ見る
     
(紀貫之「兼輔朝臣の閨の前に紅梅を植て侍りけるを、みとせ許のゝち花咲きなど
      
しけるを、女ども其枝ををりて、みすの中よりこれをいかゞといひだしければ」、
      
「兼輔 延喜廿一年(921)正月参議中将如元、始て宰相になりて侍ける年になん」、
           『後撰集』
)
 

 清少納言『枕草子』第37段「木の花には」には、「木の花は、こきもうすきも紅梅」と、花木の筆頭に挙げる。

 『新古今集』に、

   大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月
(藤原定家)
   梅がかに昔をとへば春の月こたへぬ影ぞ袖にうつれる
(同)
   とめこかし梅盛りなるわがやどをうときも人はをりにこそよれ
(西行法師)
 
 吉田兼好『徒然草』139段に、「梅は白き、うす紅梅。ひとへなるが疾く咲きたるも、かさなりたる紅梅の匂ひめでたきも、みなをかし。おそき梅は、さくらに咲き合ひて、覚えおとり、けおされて、枝にしぼみつきたる、心うし。「ひとへなるが、まづ咲きて散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言(藤原定家)は、なほ一重梅をなん軒ちかく植ゑられたりける。京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり」と。 
 芭蕉(1644-1694)の句に、

   香
(か)を探る梅に蔵見る軒端(のきば)
   むめが香に追もどさるゝ寒さかな
   かぞへ来ぬ屋敷屋敷の梅柳

   春もやゝけしきとゝのふ月と梅
   打
(うち)よりて花入(はないれ)探れんめつばき
   忘るなよ藪の中なる梅の花
   菎蒻
(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花
   梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
   やまざとはまんざい遅し梅花
   むめがゝにのつと日の出る山路かな

 蕪村
(1716-1783)の句に、

   隈々に残る寒さやうめの花
   梅咲て小さくなりぬ雪丸
(ゆきまろ)
   しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
   梅が香の立のぼりてや月の暈
(かさ)
   松下の障子に梅の日影哉
   二もとの梅に遅速を愛す哉
   さむしろを畠に敷てうめ見哉
   しら梅や北野ゝ茶店にすまひ取
   梅遠近
(おちこち)南すべく北すべく
   うめ折て皺手にかこつ薫
(かをり)かな
   梅が香に夕暮早き麓哉
   舟よせて塩魚買うや岸の梅
   水に散ッて花なくなりぬ岸の梅
   青梅や微雨の中行(ゆく)飯煙
   青梅に眉あつめたる美人哉
   青梅をうてばかつ散る青葉かな
 

  谷汲
(たにぐみ)はしづかなる寺くれなゐの梅干ほしぬ日のくるるまで
      
(1933美濃谷汲にて,斎藤茂吉『白桃』)
  一尺に足らぬ木ながら百あまり豊けき紅梅の花こそ匂え
  紅梅の散りたる花をわが手もて火鉢の燠
(おき)のうへに焼きつつ
      
(1940,齋藤茂吉『のぼり路』)
 

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