『大鏡』太政大臣道長下(『日本古典文學大系』岩波書店)に、
この天暦(947-957,村上天皇代)の御時に、清涼殿の御前のむめの木のかれたりしかば、もとめさせ給しに、なにがしぬしの藏人にていますかりし時うけたまはりて、「わかき物どもは、えみしらじ。きむぢ(重木,即ち夏山重樹)もとめよ」とのたまひしかば、ひと京まかりありきしかども、侍らざりしに、西京のそこそこなるいゑに、いろこくさきたる木のやうたいうつくしきが侍りしを、ほりとりしかば、いゑあるじの、「木にこれゆひつけてもてまいれ」といはせ給しかば、「あるやうこそは」とて、もてまいりてさぶらひしを、「なにぞ」とて御覽へければ、女の手にてかきて侍りける、
ちよく(敕)なればいともかしこし、うぐひすの、やどはととはゞ、いかがこたへん」とありけるに、あやしくおぼしめして、「なにものゝいへぞ」とたづねさせ給せれば、貫之(紀貫之)のぬしのむすめ(紀内侍)のすむ所なりけり。「遺恨のわざをもしたりけるかな」とて、あまえおはしましける。重木今生のぞくがうはこれや侍りけん。さるは、「思やうなる木もてまいりたり」とてきぬかづけられたりしも、からくなりにきとて、こまやかにわらふ。
『拾遺和歌集』卷9(『八代集抄』有精堂)に、
内より人の家に侍ける紅梅をほらせ給けるに、鶯のすくひて侍ければ、家あるじの女の
まづかくそう(奏)せさせ侍ける [此女、大鏡には貫之がむすめのよしあり]
敕なればいともかしこしうぐひすのやどはとゝはゞいかゞこたへん
かくそうせさせければほらず成にけり
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