辨 |
栽培品のアサガオは、I. nil var. japonica。
その原種はコアサガオ I. nil var. nil と呼ばれることがあり、栽培品に比べて花が小さく、瑠璃色。平安時代の日本にもたらされたものは、これだという。 |
サツマイモ属 Ipomoea(虎掌藤 hŭzhăngténg 屬)については、サツマイモ属を見よ。 |
訓 |
和名は、花が朝開くことから。ヒルガオ・ユウガオなどに対する名。 |
漢名は、植物名を牽牛(ケンギュウ,qiānniú,けんご)、その種を牽牛子(ケンギュウシ,qiānniúzĭ,けにごし・けんごし)という。
命名の由来は、一説に この薬の謝礼に牛を牽いて行ったことから(本草綱目)、一説に 牽牛星が夜空に現れる七夕のころに花がさくことから。 |
『本草和名』及び『倭名類聚抄』牽牛子に、「和名阿佐加保」と。
『延喜式』牽牛子に、「アサカホ」と。
『大和本草』牽牛子に、「朝間花容美シく 見レ晛{ヒカゲ}則萎、故朝皃ト號{ナツ}ク」、「萬葉集ニハ木槿ヲアサカホトス、古今集物名部ニケニゴシトイヘルハ牽牛花ナリ、順和名抄ニハ牽牛花ヲアサカホト訓ス、然レハ木槿モ牽牛モ共ニアカホト云、同名異物ナリ」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』牽牛子に、「アサガホ和名鈔 ケニゴシ古今集」と。 |
「朝早ク咲キ午前ニ萎ム、故ニ朝顏ノ和名アリ」(『牧野日本植物圖鑑』)。 |
説 |
コアサガオは、原産地は中国西部乃至ヒマラヤ、一説に ボルネオ・セレベス。
漢土には、六朝時代に入る。初め薬用。その花を観賞することは 元代から後のことであるらしい。 |
誌 |
中国では、次のものの種子を牽牛子(ケンギュウシ,qiānniúzĭ)と呼び薬用にする(〇印は正品)。『中薬志Ⅱ』pp.316-320 『全国中草葯匯編』上/590-591 『(修訂) 中葯志』III/521-526
アメリカアサガオ Ipomoea hederacea(Pharbitis hederacea;
牽牛・常春藤牽牛・裂葉牽牛)
ハリアサガオ Ipomoea muricata(I.turbinata, Calonyction muricatum;
丁香茄・軟刺月光花)
〇アサガオ Ipomoea nil(Pharbitis nil;牽牛・裂葉牽牛・大葉牽牛)
〇マルバアサガオ Ipomoea purpurea(Pharbitis purpurea;圓葉牽牛・紫牽牛・毛牽牛)
日本では、生薬ケンゴシ(牽牛子)は アサガオの種子である(第十八改正日本薬局方)。もっぱら家庭薬に配合するが、消費量は激減している、という。 |
日本には、奈良時代末・平安時代初期ころに、漢土から薬用植物として入り、牽牛子(けにごし・けんごし)と呼んだ。
和気広世『薬経太素』(ca.799)に、妊娠した女性が用いてはならない八種類の薬の一に「牽牛子」とある、という。
また、『古今集』(ca.913)物名に「けにごし」として、
うちつけに こしとや花の 色をみむ をく白露の そむるばかりを (やたべの名実)
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『万葉集』に、秋の七草の一として朝顔(朝貌)が詠われている。
すなわち、巻八(1537;1538)「山上臣憶良(660-733) 秋の野の花を詠める歌 二首」に、
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
芽(はぎ)が花 を花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花
をみなへし また藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがほ)の花
と秋の七草を定義している。
しかし、当時の「朝貌」は今日のアサガオではない、という。日本古典文学大系万葉集二1538補注に、次のようにある。
朝貌(あさがほ)は、「牽牛花(今のアサガオ)とする説があるが、これは渡来植物で垣根に植えるもので、野生しないという。・・・第二には、槿とする説がある。ムクゲは朝咲いてすぐしぼむ。蕣とも書いて平安朝文学では、槿をアサガホとするものが多い(和漢朗詠集など)。しかし、渡来植物で、木本であり、野生でないから、秋の野に咲く花というに不適当であるという。・・・第三は桔梗とする説である。新撰字鏡に桔梗を阿佐加保としている。秋の野に咲く花としては、美しく、かつ野生の花である。そこでこれを有力なものとしてみる説がある。しかし、桔梗を新撰字鏡でアサガホとしていても、他の和名抄や名義抄では牽牛花(今のアサガオ)や蕣・槿などをアサガホとしており、新撰字鏡だけを重要視しなければならない理由はない。また桔梗には、アサガホという名がつけられるような、特別な理由が見当たらない。第四に旋花(ヒルガホ)をというとする説があるが、理由はあまり決定的ではない。
以上のごとくにして、未決定であり、これら以外の何かであるかもしれない。」 |
なお、
新撰字鏡は、898-901に増補が成立、
古今和歌集は、913頃の成立、
本草和名は、901-923の成立、
倭名類聚抄は、931-937頃の成立、
和漢朗詠集は、1013頃の成立
類聚名義抄は、1081以後の成立。 |
諸書を見ると、『万葉集』中の朝顔はキキョウである、とする説が、今日ではおおむね受け入れられているようだ。 |
アサガオがあさがほと呼ばれるようになったのは10世紀。
深江輔仁『本草和名』(延喜年間,901-923)に、「牽牛子 和名阿佐加保」とある。 |
しかし平安時代には、ムクゲの花をも朝顔と呼んだ。たとえば、
おきてみんと 思ひし程に 枯れにけり 露よりけなる 槿(あさがお)の花 (曾根好忠、『新古今集』)
山がつの かきほにさける 槿は しののめならで あふよしもなし (紀貫之、『新古今集』)
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清少納言『枕草子』(ca.1008?)第67段「草の花は」には、「ききやう、あさがほ」と列挙しているから、これはキキョウではない。このあさがほはアサガオだろう、という。 |
それでは、次に挙げる「あさがほ」は、何の花だったのであろうか?
我ならで 下紐とくな あさがほの 夕影またぬ 花にはありとも
(おとこから「色好みなる女」にあてて、『伊勢物語』37)
もろともに を(居・折)るともなしに 打とけて 見えにける哉 あさがほの花
(よみ人しらず「あさがほの花まへにありけるざうし(曹司)より、おとこのあけていで侍けるに」。
『朝忠集』によれば、大輔(源弼女)に対する藤原朝忠(910-966)の歌)
露もありつ かへすがへすも 思しりて ひとりぞみ(見)つる あさがほのはな
(西行(1118-1190)『山家集』)
はかなくて すぎにしかたを おもふにも いまもさこそは あさがほの露
(「諸行無常の心を」、同上)
なにか思ふ 何とかなげく よの中は ただあさがほの 花のうへの露
(清水観音御歌、『新古今集』)
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アサガオは、古来薬として薬草園などに露地栽培されたが、中世には垣根や庭先に栽培することが始まり、種子の採集とともに花の観賞も行われるようになったものらしい。
豊臣秀吉(1536-1598)と千利休(1522-1591)にまつわる朝顔の茶事の逸話は その辺りの事情をうかがわせてくれ、狩野山楽(1559-1635)・山雪(1590-1651)父子が描いた天球院襖絵「朝顔図」(1631)は その様子を今日に伝えてくれる。
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宮崎安貞『農業全書』(1696)に、「園に作る薬種」の一として「牽牛子」をあげ、
「けんごし、黒白の二色あり。子の白きが直段少し高し。是又屋敷廻り余地あらばうゆべし。かきにはゝせ藪にもまとはせ、其外他の物のさのみ盛長せざる所にうへ置きて、竹を立てははすべし。土地の費へさのみなく長くはひまとひ、子多くなる物なり。・・・薬屋に売りて利なき物にあらず。又子を多く取り油をしめ取るもよし」(岩波文庫本)と。 |
江戸時代には、観賞品の改良が盛んに行われた。寛文(1661-1673)年間から花の色が多様化し始め、天明・寛政(1781-1801)年間には鉢植が始まって 江戸の町民の間に普及した。文化・文政(1804-1830)年間と嘉永・安政(1848-1860)年間には、花の観賞用に多くの品種が作り出され、熱狂的な大流行を巻き起こした。
文化年間末には『花壇朝顔通』が刊行されている。
変化ざきアサガオの一 2023/09/10 小石川植物園
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蕣(あさがほ)や昼は錠おろす門の垣 (芭蕉,1644-1694)
蕣は下手のかくさへ哀(あはれ)也 (同。「嵐雪がゑがきしに、さん(讃)のぞみければ」)
朝顔は酒盛しらぬさかりかな (同)
蕣や是も又我が友ならず (同)
蕣やぬかこの蔓のほと(解)かれす (及肩,『猿蓑』1691。ぬかこはむかご)
朝顔に釣瓶(つるべ)とられて貰ひ水 (千代女,1703-1775)
朝顔や手拭のはしの藍をかこつ (蕪村,1716-1783)
朝がほや一輪深き淵の色 (同)
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明治時代中期から、三度び朝顔育成の流行が始まった。東京の入谷の朝顔市は、そのころに始まったもの。 |
瞬間とは
かうもたふといものであらうか
一りんの朝顏よ
二日頃の月がでてゐる
(山村暮鳥「朝顏」、『雲』(1925)より)
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