ひょうたん (瓢箪) 

学名  Lagenaria siceraria var. gourda (=L. leucantha var. gourda)
日本名  ヒョウタン
科名(日本名)  ウリ科
  日本語別名  
漢名  葫蘆・葫芦(コロ,hulu)
科名(漢名)  葫蘆科
  漢語別名  壺蘆・壷芦(コロ,hulu)、細腰葫蘆(サイヨウコロ,xiyaohulu)、蒲蘆(ホロ,pulu)
英名  Gourd, Bottle gourd, White fingered gourd
2005/08/30  新座市野火止

 ヒョウタン属 Lagenaria(葫蘆屬)には、次のようなものがある。
   L. abyssinica 
エチオピア乃至ザイール産
   L. brevifolia 
スーダン産
   L. siceraria
     ユウガオ
(ナガユウガオ・ナガフクベ) var.hispida(瓠子・扁蒲)
     ヒョウタン(ヒサゴ) var.siceraria(葫蘆・壺蘆・細腰葫蘆・蒲蘆)
     フクベ
(オオフクベ・スミトリフクベ) var.depressa(匏・匏瓜・瓢葫蘆;Kor.朴,パク)
     センナリヒョウタン var.microcarpa(小葫蘆)
   L. sphaerica
アフリカ・マダガスカル産 
 ウリ科 Cucurbitaceae(葫蘆科)については、ウリ科を見よ。
 中国において、古来 (コ,gu)・匏(ホウ,pao)・壺(コ,hu)と記される植物は、ユウガオ・ヒョウタン・フクベのうちのいずれかである。
 深江輔仁『本草和名』(ca.918)苦瓠に、「和名尓加比佐古」と。
 Lagenaria siceraria は、おそらくアフリカ熱帯低地の原産だが、アジア・アフリカの熱帯地方で非常に古くから栽培された。
 「(アフリカのサバンナ農耕文化起源の作物の中で)考古学や民族学と関係がふかくて、興味のある果菜はヒョウタンである。ヒョウタンはアフリカ産のものとアジア産のものとが、同一起源か、別種であるか疑問がある。しかしいずれにせよ、ヒョウタンは多面的に利用される果菜である。まず未熟果を食用とすると言う面から見ると、アフリカにそれがすこしみられる。ヒョウタンの未熟果は苦味があるので、食べにくい果菜だが、くふうをすればよい。その代表は日本のカンピョウで、これはなんでもない丸型の果実をつけるヒョウタンの一品種に過ぎない。その未熟果の果肉を乾燥して苦味をとり、貯蔵用の食品に仕上げたところは、サバンナ農耕文化複合の生んだ一つの傑作である。・・・
 ヒョウタンの第二の大きい利用法は完熟した果実の硬い皮を容器として利用することである。日本の酒の容器としてのヒョウタンはもちろんのこと、朝鮮のパカチというヒシャク、アフリカのサバンナで水筒代りの利用法などいちじるしい。」(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』1966、岩波新書)
 果実は苦くて食えないが、熟すと果皮が非常に硬くなるので、容器として用いる。縦に二つに割ってひしゃく(柄杓)とし、横に割って食物の容器とする。
 また、観賞用・日蔭棚用としても栽培する。
 中国では、古くは新石器時代の河姆渡(カボト,hemudu)遺跡(浙江省余姚県,約7000年前)から出土している。
 古来の利用法は、熟した果実の果肉を取り去り、硬い外皮を乾燥させて、各種の器に加工するもの。そのままの形で水・酒の容器とし
(時には浮き袋とし、また吹奏楽器とし)、縦に割って柄杓とし、横に割って碗とするなどした。中空の器として、容れるものであると同時に、生み出すものであり、特別な霊能・呪力を持つものとして古来大切にされた。たとえば、人類の始祖である伏羲・女媧は、ともに瓢箪の擬人化であるという(聞一多)。また後の絵画作品に描かれる仙人たちが瓢箪を腰に吊り下げているのも、不老不死の仙薬の容器としてである。 
 『詩経』国風・豳風「七月」に、「八月は壺(こ。ヒサゴ)を断(き)る」と。
 国風・邶風(はいふう)・匏有苦葉(ほうゆうくよう)に、「匏(はう)に苦葉(こえふ)有り、済(わたり)に深き渉(わたり)有り」と。匏には葉・果が食えるものと 苦くて食えないものがあり、苦いものは果を乾燥して浮輪に用いたのだという。
 国風・衛風・碩人に、美人を形容して「手は柔荑(じうてい,チガヤの新芽)の如く、膚は凝脂(ぎようし)の如し。領(りやう,くび)は蝤蠐(しうせい,すくもむし)の如く、歯は瓠犀(こさい,ひさごのならんだ種子)の如し。螓(しん,額の広い蝉)首、蛾眉」と。
 『爾雅』釋草に、「瓠棲(コセイ,huxi)、瓣(ベン,ban)」と、郭璞注に「瓠中瓣也。『詩』云、齒如瓠棲」と。
 賈思勰『斉民要術』(530-550)巻2に、「種瓠」の章がある。
 日本では、古くは縄文時代前期の鳥浜貝塚(福井県三方町鳥浜字高瀬)から出土している。
 利用法はやはり器として。後の「柄杓
(ひしゃく)」という語は、瓢箪を意味する「ひさご」の訛りと言う。
 『日本書紀』巻11 仁徳天皇11年10月の条に、「宮(難波高津宮)の北の郊原(の)を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。・・・又将に北の河の澇(こみ)を防(ほそ)かむとして、茨田堤(まむたのつつみ)を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊(くづ)れて塞ぎ難き有り。時に天皇(すめらみこと)、夢(みいめ)みたまはく、神有(ま)しまして誨(をし)へて曰(まう)したまはく、「武蔵人強頸(こはくび)・河内人茨田連(まむたのむらじ)衫子(ころものこ)二人を以て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓(ま)ぎて得つ。因りて河神に祷(まつ)る。爰(ここ)に強頸、泣(いさ)ち悲びて、水に没(い)りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全(おふし)(ひさこ)両箇(ふたつ)を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投(なげい)れて、謂(うけ)ひて曰はく、「河神、祟りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて、親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自(おの)づからに偽(いつはり)の神と知らむ。何(いかに)ぞ徒(ただ)に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風(つむじかぜ)(たちまち)に起りて、匏を引きて水に没(しづ)む。匏、浪の上に転(まろ)ひつつ沈まず。則ち潝潝(とくすみやか)に汎(うきをど)りつつ遠く流る。是を以て、衫子、死なずと雖も、是の堤亦成りぬ。是、衫子の幹(いさみ。才能)に因りて、其の身亡びざらくのみ」と。
 同67年是歳の条に、「吉備中国
(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の派(かはまた)に、大虬(みつち)有りて人を苦(くるし)びしむ。時に路人(みちゆくひと)、其の処に触れて行けば、必ず其の毒(あしきいき)を被(かうぶ)りて、多(さは)に死亡(し)ぬ。是に、笠臣(かさのおみ)の祖(おや)県守(あがたもり)、為人(ひととなり)勇捍(いさを)しくして強力(つよ)し。派淵(ふち)に臨みて、三つの全(あふし)(ひさこ)を以て水に投(なげい)れて曰はく、「汝屡(しばしば)毒を吐きて、路人を苦びしむ。余(われ)、汝虬(みつち)を殺さむ。汝、是の瓠を沈めば、余(われ)(さ)らむ。沈むること能はずは、仍(すなは)ち汝が身を斬(ころ)さむ」といふ。時に水虬、鹿(か)に化(な)りて、瓠を引き入る。瓠沈まず。即ち剣を挙げて水に入りて虬を斬る。更に虬の党類(ともがら)を求む。乃ち諸(もろもろ)の虬の族(やから)、淵の底の岫穴(かふや)に満(いは)めり。悉くに斬る。河の水血に変(かへ)りぬ」と。
 今日の信仰や昔話にも、河童が瓢箪を忌むという。
 日本の乾瓢は、15世紀から記録がある(『下学集』1444)

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