辨 |
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ミカン属 Citrus(柑橘 gānjú 屬)については、ミカン属を見よ。 |
訓 |
和名たちばなは、一説に「立ち花」の意で、「立つ」とは神が立ち出でることという。また一説に、田道間守(たじまもり)の名に基づくという。下の誌を見よ。
そのたちばなとは、日本原産の柑橘類タチバナを指したものであろう。 |
そののちさまざまな柑橘類が渡来すると、和名橘(たちばな)は、食用になる柑橘類の総称となった。
(そのほか、ヤブコウジ(山橘)・カラタチバナ(橘・唐橘)なども橘と呼んだ。) |
『倭名類聚抄』橘に、「和名太知波奈」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』26橘に、「カクハ日本紀 ムカシグサ古歌 ニハコグサ カクダモノ共ニ同上 タチバナ和名鈔 カウジ」と。 |
漢名の橘(キツ,jú)は、歴史的には柑橘類の一部を指し、実の小さいものを橘・大きいものを柚(ユウ,yòu)、併せて橘柚(キツユウ,júyòu)と呼んだ。
今日の漢語では、橘は C. reticulata(甜橘)を云うようだ(『全国中草薬匯編』)。したがって、タチバナの漢字に橘を当てるのは誤りである、という。 |
説 |
柑橘類のうち、シイクワシャー(ヒラミレモン) C. depressa とともに数少ない日本原産種の一。
本州(伊豆半島以西)・四国・九州・琉球・臺灣に分布。
環境省RedList2020によれば、「コウライタチバナ Citrus nippokoreana」は絶滅危惧IA類(CR)。 |
誌 |
『古事記』『日本書紀』などによれば、かつて垂仁天皇(4c.)は 田道間守(たじまもり)を常世(とこよ)の国につかわして「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」を求めさせた。
又(垂仁)天皇、三宅連(みやけのむらじ)等の祖、名は多遅摩毛理(たぢまもり)を常世の国に遣はして、登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)を求めしめたまひき。故(かれ)、多遅摩毛理、遂に其の国に到りて、其の木の実を採りて縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)を将ち来たりし間に、天皇既に崩(かむあが)りましき。爾に多遅摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大后に献り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木の実を擎(ささ)げて、叫び哭(な)きて白ししく、「常世国の登岐士玖能迦玖能木実を持ちて参上りて侍ふ。」とまをして、遂に叫び哭きて死にき。其の登岐士玖能迦玖能木実は、是れ今の橘なり。
(『古事記』中巻、垂仁天皇紀) |
(垂仁天皇)九十年の春二月(きさらぎ)の庚子(かのえね)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、田道間守(たぢまもり)に命(みことおほ)せて、常世国に遣して、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)を求めしむ。〔香菓、此をば箇倶能未と云ふ。〕 今、橘と謂ふは是なり。
九十九年の秋七月(ふみづき)の戊午(つちのえうま)の朔に、天皇、纏向宮(まきむくのみや)に崩(かむあが)りましぬ。・・・・・・
明年(くるつとし)の春三月(やよひ)の辛未(かのとひつじ)の朔壬午(みづのえうまのひ)に、田道間守、常世国より至(かへりいた)れり。則ち齎(もてまうでいた)る物は、非時の香菓、八竿(やほこ)八縵(やかげ)なり。田道間守、是(ここ)に、泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まう)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかなるくに)に往(まか)る。万里(とほく)浪を踏(ほ)みて、遥に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づからに十年(ととせ)に経(な)りぬ。豈(あに)期(おも)ひきや、独(ひとり)峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼(よ)りて、僅に還り来ること得たり。今天皇既に崩りましぬ。復命(かへりことまう)すこと得ず。臣(やつかれ)生けりと雖も、亦何の益(しるし)かあらむ」とまうす。乃ち天皇の陵(みささぎ)に向(まゐ)りて、叫(おら)び哭きて自ら死(まか)れり。群臣(まへつきみ)聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連(みやけのむらじ)の始祖(はじめのおや)なり。
(『日本書紀』巻6、垂仁天皇紀) |
文中のほこ(矛・竿)・かげ(縵)とは、「竿は串刺しの団子のように串に刺した形状、縵は乾し柿のようにいくつかの橘子を縄にとりつけた形状をいうのであろう」(岩波文庫版『日本書紀』注)。 |
この「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」の正体について、古来ダイダイ説、キシュウミカン説、タチバナ説があるが、定まらない。
なお、漢土には、「非時果」について次の伝説がある。
晋(265-420)・曹毘『杜蘭香伝』に、「神女、姓は杜、名は蘭香、張碩に降る。常に粟飯を食う。并びに非時果有り。碩、之を食うに、亦た甘からず。然して一たび食えば、七八日は飢えざるべし」と(『太平御覧』964引)。
曹毘は、字は輔佐、譙国の人。「時に桂陽の張碩、神女杜蘭香の降る所と為る。毘、因りて二篇の詩を以て之を嘲る。並びに続蘭香歌詩十篇、甚だ文彩有り」と(『晋書』92文苑伝)。 |
応神天皇(5c.初)は、日向国から呼び寄せた噂の美女髪長媛(かみながひめ)を 花橘に喩えて歌った。
いざこ(子)ども のびる(野蒜)つ(摘)みに ひる(蒜)つ(摘)みに
わ(我)がゆ(行)くみち(道)の か(香)ぐはし はなたちばな(花橘)は
・・・ (『古事記』中巻応神天皇記・『日本書紀』巻10 応神天皇11年乃至13年) |
大伴家持(717-185)「橘の歌」(『万葉集』18/4111;4112)は、上記の田道間守(たぢまもり)の伝説を踏まえる。
かけまくも あやにかしこし 皇神祖(すめろぎ)の かみ(神)の大御世に
田道間守常世(とこよ)にわたり やほこ(八矛)もち まゐで(参出)こしとき
時じくの 香久の菓子(このみ)を かしこくも のこしたまへれ
国もせ(狭)に おひたちさかえ はる(春)されば 孫枝(ひこえ)も(萌)いつつ
ほととぎす なく五月には はつはなを えだにたを(手折)りて
をとめらに つと(裹)にもや(遣)りみ しろたえの そでにもこき(扱入)れ
かぐはしみ おきてか(枯)らしみ あゆる実は たまにぬきつつ
手にまきて 見れどもあかず 秋づけば しぐれのあめふり
あしひきの やまのこぬれ(木末)は くれなゐに にほひちれども
たちばなの 成れるその実は ひた照りに いやみ(見)がほ(欲)しく
みゆきふる 冬にいたれば 霜おけども その葉もかれず
常磐なす いやさかはえに しかれこそ 神の御代より
よろ(宜)しなへ 此の橘を ときじくの かくの木の実と 名附けけらしも
反歌
橘は花にも実にもみ(見)つれどもいや時じくになほし見がほ(欲)し
大伴家持には「橘の花を攀じて坂上大嬢に贈る歌」(『万葉集』8/1507;1508;1509)の作もある。
いかといかと ある吾が屋前(やど,には)に 百枝刺し おふる橘
玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり
朝にけ(日)に 出で見るごとに 気(いき)の緒を 吾が念ふ妹に
銅鏡(まそかがみ) 清き月夜に ただ一眼 みするまでには
落(ち)りこすな ゆめと云ひつつ 幾許(ここだく)に 吾が守る物を
うれたきや しこ霍公鳥(ほととぎす) 暁の 裏悲しきに
追へど追へど 尚し来鳴きて 徒らに 地に散らせば
術を無み 攀じて手折りつ 見ませ吾妹児
反歌
望(もち)降(くた)ち清き月夜に吾妹児に視せむと念ひし屋前の橘
妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を地に落らしつ
これらから見ると、橘は外来の果実であり、不老不死の仙人の国からもたらされたもので、ホトトギスの鳴く五月にさく花は手折って愛で、こぼれる花は玉に貫いて蔓にしたが、木に残る実は、秋になってほかの木々が紅葉し 葉を落した後も、黄色くかがやいて美しく、その葉は冬になって霜が降りても常磐の緑を失わない、などと褒め称えられている。常緑であることにことよせられる永遠の生命力、初夏の季節感をもたらす白い花と、永らく黄金色に照り輝く果実の美しさ、その実の美味などが、橘愛好の理由であるようだ。 |
『万葉集』を読むと、当時の人々が上から下まで、宮廷の園林に植え、個人の邸宅に植え、あるいは街路樹として植えた橘に、ほとんど熱狂している様子がうかがわれる。文藝譜を見よ。
代表的な歌は、
橘は実さへ花さへ 其の葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹 (6/1009,聖武天皇)
とこよもの(常世物) このたちばなの いやてり(照)りに
わご大皇(おほきみ)は いまも見るごと(如)
大皇は ときは(常磐)にま(在)さむ たちばなの
との(殿)のたちばな ひた(直)て(照)りにして (18/4063;4064,大伴家持)
片搓りに 糸をそ吾が搓る 吾が背児の 花橘を 貫かむと思(も)ひて (10/1987,読人知らず)
五月の 花橘を 君が為 珠に貫く ちらまく惜しみ (8/1502,大伴坂上郎女)
五月山 花橘に 霍公鳥 隠らふ時に 逢へるきみ(君)かも (10/1980,読人知らず)
風に散る 花橘を 袖に受けて 君が御為と 思ひつるかも (1966,読人知らず)
暇無み 五月をすらに 吾妹児が 花橘を 見ずか過ぎなむ (8/1504,高安)
吾が屋前の 花橘は 落りにけり 悔しき時に あへる君かも (10/1969,読人知らず)
つき(月)ま(待)ちて いへ(家)にはゆ(行)かむ わがさ(挿)せる
あか(赤)らたちばな かげ(影)にみ(見)えつつ (18/4060,粟田女王)
・・・
豊の宴(あかり) 見す今日の日は もののふの 八十伴の男の
嶋山に あかる橘 うず(髻華)に指し 紐解き放(さ)けて
千年ほ(祷)ぎ ほ(祷)きとよもし ・・・
(19/4266,大伴家持。豊の宴は 11月の新嘗祭の翌日の宴)
橘の 本に我を立て 下枝(しづえ)取り 成らむや君と 問ひし子らはも (11/2489,読人知らず)
橘の 光(て)れる長屋に 吾が率宿(ゐね)し
うなゐ(童女)はなり(放髪)に 髪あげつらむか (16/3823,読人知らず) |
平安時代、御所の紫宸殿の前に植えられていた「右近の橘、左近の桜」の橘は、タチバナの園芸品種で、実が大きいものという。
『八代集』に、
やどりせし 花橘も かれなくに などほとゝぎす こゑたえぬらん
(大江千里、『古今和歌集』)
今もかも さきにほふらむ たち花の こじまのさきの 山吹の花
さつきまつ 花たちばなの かをかげば 昔の人の 袖のかぞする
けさきなき いまだたびなる 郭公 花たちばなに やどはからなん
(よみ人しらず、『古今和歌集』)
あしひきの 山たちはなれ ゆくものの やどりさだめぬ 世にこそ有りけれ
(小野滋蔭、『古今和歌集』物名「たちばな」。なお、山橘はヤブコウジ)
夏の夜に 恋しき人の かをとめば はなたちばなぞ しるべなりける
(よみ人しらず、『後撰和歌集』)
雨そそぐ 花橘に 風過ぎて 山ほととぎす 雲に鳴くなり
(藤原俊成、『新古今和歌集』)
五月やみ みじかき夜はの うたたねに 花橘の 袖にすずしき
(慈円、『新古今和歌集』)
清少納言『枕草子』第37段「木の花は」に、「四月のつごもり、五月のついたちの頃ほひ、橘の葉のこくあをきに、花のいとしろうさきたるが、雨うちふりたるつとめてなどは、よ(世)になう心あるさまにをかし。花のなかよりこがねの玉かと見えて、いみじうあざやかにみえたるなど、朝露にぬれたるあさぼらけのさくら(桜)におとらず。ほととぎすのよすがとさへおもへばにや、なほさらにいふべうもあらず。」と。
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西行(1118-1190)『山家集』に、
わがやどに はなたちばなを うゑてこそ 山ほととぎす まつべかりけれ
ほととぎす はなたちばなは にほふとも 身をうの花の かきね(垣根)わすれな
かさねては こ(乞)ひえまほしき うつりがを はなたちばなに けさたぐへつゝ
(後朝花橘)
のきちかき はなたちばなに 袖しめて むかしをしのぶ なみだつゝまん
よのうさを むかしがたりに なしはてて はなたちばなに おもひいでめや
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『花壇地錦抄』(1695)巻三「柑(かう)るひ」に、「橘(たちはな) みつかんよりちいさく、かうじのやうニ見ゆる。かうじと異ある物にや、くわしくしらず。南都(なら)南円堂ニ順礼札をかくる木ありし。問侍れハたち花とこたへし」と。 |
駿河路や花橘も茶の匂ひ (芭蕉,1644-1694)
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今日では、文化勲章がタチバナをかたどっている。 |