千曲川旅情の歌
 

作者名  島崎藤村 (1872-1943)
作品名  千曲川旅情の歌
制作年代  1890
収載書名  『藤村詩抄』(岩波文庫)
刊行年代  1927
 その他  一と二は、はじめ独立した作品。一は、もと「旅情」、改題して「小諸なる古城のほとり」、二はもと「小吟」。『明星』創刊号に発表。のちに『藤村詩抄』において、初めて一篇の前後章とされた。

   一
小諸
(こもろ)なる古城(こじやう)のほとり
雲白く遊子
(いうし)悲しむ
綠なす蘩蔞
(はこべ)は萌(も)えず
若草も藉
(し)くによしなし
しろがねの衾
(ふすま)の岡邊(をかべ)
日に溶
(と)けて淡雪(あはゆき)流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香
(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人
(たびびと)の群(むれ)はいくつか
畠中
(はたなか)の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間
(あさま)も見えず
歌哀
(かな)し佐久(さく)の草笛(くさぶえ)
千曲川
(ちくまがわ)いざよふ波の
岸近き宿
(やど)にのぼりつ
(にご)り酒濁れる飮みて
草枕
(くさまくら)しばし慰む


   二
昨日
(きのふ)またかくてありけり
今日
(けふ)もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪
(あくせく)
明日
(あす)をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯
(えいこ)の夢の
消え殘る谷に下りて
河波
(かはなみ)のいざよふ見れば
砂まじり水卷きかへる

嗚呼
(ああ)古城(こじやう)なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
(いに)し世を靜かに思へ
百年
(ももとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁
(うれひ)を繋(つな)
 


 詠いこまれた植物  ハコベムギヤナギ

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