日本書紀 磐余稚桜宮 (いわれのわかさくらのみや)
作者名 |
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作品名 |
日本書紀 巻12 履中天皇3年11月 |
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(履中天皇)三年の冬十一月の丙寅の朔(ついたち)辛未に、天皇(すめらみこと)、両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)に泛べたまふ。皇妃(みめ)と各(おのおの)分ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ。膳臣(かしわでのおみ)余磯(あれし)、酒(おおみき)献(たてまつ)る。時に桜の花、御盞(おほみさかづき)に落(おちい)れり。天皇、異(あやし)びたまひて、則ち物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して曰(のたま)はく、「是の花、非時(ときじく)にして来れり。其れ何処の花ならむ。汝(いまし)、自ら求むべし」とのたまふ。是に、長真胆連、独(ひとり)花を尋ねて、掖上室山(わきのかみのむろのやま)に獲て、献る。天皇、其の希有(めづら)しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故(かれ)、磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)と謂(まう)す。其れ此の縁(ことのもと)なり。是の日に、長真胆連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰(い)ふ。又、膳臣余磯を号(なづ)けて、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と曰ふ。 |
履中天皇は、仁徳天皇の子、5世紀前半頃に在位し、『宋書』にいう倭五王の第一である讃に当てられることがある。
その宮殿、磐余稚桜宮は、今の奈良県桜井市池之内あたりにあったとされる。この話は、その名の由来を説く。 |
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