辨 |
キュウリ属 Cucumis(黃瓜 huángguā 屬)には、旧世界の熱帯・亜熱帯に約40-60種がある。
ニシインドコキュウリ C. anguria(C.longipes; E.Gherkins, West Indian gherkin,
Bur gherkin)
C. hystrix(野黃瓜・老鼠瓜・鳥苦瓜・酸黃瓜) 雲南・ミャンマー・アッサム産
メロン C. melo(C.bisexualis; 甜瓜)
古代エジプト・ギリシア・ローマ時代から栽培。40以上の変種がある。
ツケウリ var. utilissimus
シロウリ(ツケウリ) 'Albus'(C.melo var.conomon;
菜瓜・越瓜;E.Oriental pickling melon)
マクワ var. makuwa(甜瓜・香瓜)
キュウリ(標準) C. sativus(C.esculentus; 黃瓜)
キュウリ var. tuberculatus
ヤセイキュウリ var.hardwickii(C.hardwickii;野生黃瓜・西南野黃瓜)
廣西・貴州・雲南・ヒマラヤ南麓に産、キュウリの原種
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ウリ科 Cucurbitaceae(葫蘆 húlu 科)については、ウリ科を見よ。 |
訓 |
漢名を単に瓜(カ,guā)というもの、和名を単にうりというものについては、マクワを見よ。
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キュウリの漢名は、漢代以来胡瓜(コカ,húguā)といい、後に黃瓜(コウカ,huángguā)と改む。胡というのは、西方から入ってきたことから、黃というのは果が黄熟することから。
改名の理由について二説があり、一説に石勒(274-333)の諱を避けて改むといい(陳蔵器『本草拾遺』)、一説に隋・大業4年(608)諱を避けて黃瓜と改むという(李時珍『本草綱目』引 杜宝『拾遺録』)。 |
和名は、漢名黄瓜の訓「きうり」。
『本草和名』胡瓜に、「和名加良宇利」と。
『倭名類聚抄』に、黄瓜は「和名木宇利」、胡瓜は「和名曽波宇里、俗云木宇利」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』2 胡瓜に、「ソバウリ和名鈔 キウリ同上」と。 |
説 |
インドのヒマラヤ地方山麓に野生するヤセイキュウリ var. hardwickii (C.hardwickii)から改良した栽培種。 インドでは、約3000年前に栽培。
雌雄異花同株。 |
「果菜類の野生原種はほとんどこのような苦味などがあって、それがないように改良されてきたものである。たとえばキウリの野生種は低ヒマラヤにたくさん生えており、ニワトリの卵くらいの大きさの果実をつける。その未熟果を食べてみると、げんざいの改良されたキウリでもすこし残っている苦味が、ものすごいほど強くて、とても食べられない。」(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』1966、岩波新書) |
西方には、B.C.3c.-B.C.2c.にローマに入り、皇帝ティベリウス(在位14-37)はこれを好んだ。
フランスには9世紀に、イギリスには14世紀に入る。
これら西方に伝わったものには、表面にイボがない。 |
中国では、李時珍『本草綱目』によれば、いわゆる張騫もの。つまり、前漢・武帝(B.C.140-B.C.87)のとき、西域に使いした張騫が西方から持ち帰ったものの一という。この系統から、「華北キュウリ(夏型キュウリ)」品種群が成立。
一方、ヒマラヤからネパール・ビルマを経て華南に入った系統からは、「華南キュウリ(春型キュウリ)」品種群が成立した。
これら東方に伝わったものは、表面にイボが多い。 |
日本には、奈良時代以前に華南キュウリが入った。平城京跡から種子が出土している。
蔬菜として一般に用いるようになるのは、江戸時代後期になって華北キュウリが入り、品種改良が進んでから。
明治時代以降 ガラスフレームの普及に伴って夏野菜として広まり、第二次世界大戦後 ビニールハウスの普及とともに通年野菜として普及した。 |
誌 |
日本では、古くは黄熟したものを食用にした。 |
「是下品の瓜にて賞翫ならずといへども、諸瓜に先立ちて早く出来るゆへ、いなかに多く作る物なり。都にはまれなり。」(宮崎安貞『農業全書』1697)
『大和本草』胡瓜{キウリ}にも、「京畿ニハ越瓜多キユヘニ不レ用レ之。最下品ナリ、性味トモニ不レ好、只鹽ヲツケテ茹{ホシモノ}トスヘシ」と。 |
江戸では、キュウリの初成りを天王様(牛頭(ごづ)天王)に供えるとて川に流した。キュウリを芯にした海苔巻を河童巻と言うのは、ここから。(異説もあり。) |
ものさびしき世相(よさま)にありてはきけやし胡瓜噛む音わが身よりする
(1941「九月六日陰暦七月十五日満月」,齋藤茂吉『霜』)
朝な朝な胡瓜畑を楽しみに見にくるわれの髯のびて白し
(1946,齋藤茂吉『白き山』)
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『旧約聖書』「民数記」11によると、モーゼに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々は、シナイの荒野にあって次のように不満を言った、「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」と。
Who shall give us flesh to eat?
We remember the fish, which we did eat en Egypt freely; the cucumbers,
and the melons, and the leeks, and the onions, and the garlic:
But now our soul is dried away: there is nothing at all, besides this
manna, before our eyes.
(NUMBERS 11,King James Version) |
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