辨 |
中国・日本で、古来 瓜(うり)として親しまれてきた果物は、このマクワウリである。 |
メロン Cucumis melo については、メロンを見よ。 |
キュウリ属 Cucumis(黃瓜屬)については、 キュウリ属を見よ。 |
訓 |
瓜(カ,guā)の字は、うりの蔓に実が下っている姿を表す象形文字。 |
漢語の瓜も和語のうりも、広くはウリ科の植物の総称、身近な食物として特にそのうちキュウリ属 Cucumis の総称、就中マクワを謂う。 |
和名マクワの由来は、通説では、むかし美濃国本巣郡真桑村(岐阜県本巣市)に産するものが美味で評判が高かったことから。
『大和本草』甜瓜に、「濃州眞桑村ヨリ上品出ル故ニヨキ瓜ヲマクハト云」と。
『本草綱目啓蒙』に、「マクハハモト濃州真桑村ヨリ出ル甜瓜、上品ニシテ鄰村ニ栽テハ形味トモニ変ズ、古ヘ城州東寺邊ニテ毎年真桑村ノ種ヲトリ寄ウヘシ故、今ニ至リテモ京師ニテハ マクハウリト呼」と。
一説に、マクワは真瓜(まくわ)であり、後に伝来したスイカやキュウリと区別した称謂、ともいう。 |
『本草和名』に、熟瓜は「和名保曽知」、白瓜子は「和名宇利乃佐祢」、瓜蔕は「和名尓加宇利乃保曽」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』29 甜瓜に、「ホソヂ和名鈔 マクハウリ京 カラウリ アマウリ アヂウリ雲州作州」と。 |
説 |
栽培メロン類から、インド・東南アジアで分化発達した東洋系メロンの一。中国には紀元前に伝えられ、5世紀にはいくつかの品種に分化していた。
日本では、弥生時代の遺跡から種子が出土している。 |
誌 |
中国では、『大戴礼』「夏小正」五月に「乃ち瓜あり。〔乃ちとは、瓜を急にするの辞なりなり。瓜なる者は、始めて瓜を食むなり。〕」と、八月に「瓜を剥ぐ。〔瓜を剥ぐなりとは、瓜を畜(たくは)ふるの時なり。〕」と。
『詩経』国風・豳風「七月」に、「七月は瓜を食らふ」と。 |
『礼記』「内則」に、周代の君主の日常の食物の一として瓜を記す。 |
ウリが果物として如何に好まれたかは、「君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処{オ}らず。瓜田(カデン)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を整(ただ)さず」の句(楽府歌辞「君子行」)が、のちに諺となったことからも知られる。
唐代には 盛夏に冷やして食われたようで、「羽扇風を揺らせて珠汗を却く。玉盆水を貯えて甘瓜を割く」(李頎)、「甘瓜緑を剖き寒泉出づ」(李商隠)等と詠われている。 |
瓜の蔓が伸びてその先に実のなる様子について、『詩経』大雅・文王之什の「緜(メン)」に「緜緜たる瓜瓞(カテツ)」とあって、続く「民の初めて生ず」の起興となっている。その理由は「一般に瓜類には種が多く、子孫繁栄の最良の象徴であったからなのであろう」(聞一多「伏羲考」)という。
集伝にその蔓と実の関係について「大なるをば瓜といい、小なるをば瓞(テツ,こうり}と曰う。瓜の本に近く初生する者は常に小なり。其の蔓絶えず末に至りて大なり」というのも、末広がりの吉祥のイメージに繋がろう。
また『淮南子』繆称訓に「福(さいわい)の萌(きざ)すや緜緜たり」とあり、緜緜と伸びて尽きない蔓自体、途絶えることのない福、後にはたとえば代々連なる一族の繁栄などを象徴した。『古詩源』5 魏・明帝「種瓜篇」に、「瓜を東井の上に種(う)う、冉冉(ゼンゼン)として自ら垣を踰ゆ。君と新たに婚を為す、瓜葛 相結び連ならん。云々」とあるのは、その好例である。 |
『詩経』小雅・谷風之什の「信南山」に、「中田に廬有り、彊埸(キョウエキ)に瓜有り、是れ剥(ハク)し 且(こ)れ菹(ソ,つけもの)とし、之を皇祖に献ず」とあるように、人々は畑に植えられている瓜についても注目した(廬は、一説(郭沫若)に蘆菔(ロフク,ダイコン)、一説にいおり。彊埸(キョウエキ)は田地の境の畔)。
蘇軾(1036-1101)が「紫李 黄瓜 村路香ばし」(「病中游祖塔院」)と詠うように、瓜は農村乃至田圃を提喩する作物である。 |
秦(B.C.221-B.C.207)の東陵侯であった邵平は、秦が破れると貧しい一布衣となり、洛陽城の東、青門の外に瓜畑を作ったが、その瓜は五色があって美味く、世にこれを東陵の瓜・青門の瓜と呼んだという(要するに邵平は貧しい瓜売りとして余生をおくった)。
阮籍(210-263)はこれを踏まえて「詠懐」詩17首の9に、「昔聞く 東陵の瓜、近く青門の外に在り。畛(あぜ)を連ねて阡陌(センパク)に距(いた)り、子母(大きな瓜と小さな瓜)相鉤帯し、五色は朝日に曜き、嘉賓は四面に会せりと。膏火は自ら煎熬(センゴウ)し、財多きは患害を為す。布衣こそ身を終るべし、寵禄は豈に頼むに足らんや」と詠う(『文選』詠懐)。すなわち、瓜は わずらわしい仕官から開放された、自由な布衣の生活の提喩である。
従って、王維(699-759;701-761)が「箪食(タンシ)伊(こ)れ何ぞ、瓜をさき 棗(なつめ)を■(う)つ」と詠う(「酬諸公見過」)とき、それは藍田にあっての粗食の姿であった。宋代に趙師秀(1190進士)が「薛氏の瓜廬」詩に「封侯の念を作ざず、悠然として世紛より遠ざかる、只だ応に瓜を種(う)うるを事とすべきも、猶お読書の被(ため)に分たれん」と詠うのも同様であり、瓜は栄達を謝絶した晴耕雨読の生活を提喩する蔬菜である。 |
賈思勰『斉民要術』(530-550)巻2に、「種瓜」の章がある。 |
中国では、ウリの果実の茎を瓜蔕(カテイ,guādì)と呼び薬用にする。『全國中草藥匯編 上』pp.305-306
また、種子を甜瓜子(テンカシ,tiánguāzĭ)と呼び薬用にする。『中薬志Ⅱ』pp.400-402 『全國中草藥匯編 上』p.306 |
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日本へは、極めて古く伝わり、登呂遺跡(弥生時代後期)から種子が出土している。
以来、古い文献に記されるウリとは、マクワを指していたものと考えられている。 |
『古事記』中に、日本武尊(やまとたけるのみこと,倭建命)は、熊襲(くまそ,熊曽)征伐に当り、熊曽建(くまそたける)を「即ち熟苽の如く振り折(た)ちて殺」した、という。
『倭名類聚抄』に、熟瓜は「和名保曽知(ほぞち)、俗用熟瓜二字、或説極熟、蔕落之義也」と。ほぞちとは、よく熟したマクワが果柄から離れて落ちることから、「ほぞおち」の転訛だという。 |
日本では、ウリのせいで 先代の皇后が自殺したことがある。
『日本書紀』巻15 仁賢天皇2年9月の条に、「難波小野皇后(なにはのをののきさき)、宿(もと)、敬(いや)なかりしことを恐れて自ら死(みう)せましぬ。〔弘計天皇(をけのすめらみこと)の時に、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけのみこ)、宴に侍りたまふ。瓜を取りて喫(くら)ひたまはむとするに、刀子(かたな)無し。弘計天皇、親ら刀子を執りて、其の夫人小野に命(おほ)せて伝へ進(たてまつ)らしめたまふ。夫人、前に就(ゆ)きて、立ちながら刀子を瓜盤に置く。是の日に、更に酒を酌みて、立ちながら皇太子を喚ぶ。斯(こ)の敬なかりしに縁りて、誅(つみ)せられむことを恐りて自ら死せましぬ〕」と。
なお、仁賢天皇(名は億計)と顕宗天皇(名は弘計)は兄弟。弟の弘計が先に天皇になり、兄の億計は皇太子になった。弘計が死ぬと、億計は次の天皇になった。難波小野皇后は、弘計天皇の皇后。 |
『万葉集』に、
宇利(うり)はめば こどもおもほゆ 久利(くり)はめば ましてしのばゆ いづくより きたりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ
反歌
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も なにせむに まされるたから こにしかめやも
(4/802,山上憶良,660-ca.733) |
芭蕉(1644-1694)の句に、
山かげや身をやしなはむ瓜畠
夕(ゆふべ)にも朝にもつかず瓜の花
朝露によごれて涼し瓜の泥
柳小折(こり)片荷は涼し初真桑
初真桑(はつまくわ)四(よつ)にや断(わら)ン輪に切ン
花と実と一度に瓜のさかりかな
秋凉し手毎にむけや瓜茄子
我に似な二ツにわれし真桑瓜
蕪村(1716-1783)の句に、
麦刈て瓜の花まつ小家哉
雷に小家は焼れて瓜の花
あだ花は雨にうたれて瓜ばたけ
こと葉多く早瓜くるゝ女かな
瓜小家の月にやおはす隠君子
瓜小屋に人見えなくて川やしろ
水桶にうなづきあふや瓜茄子
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