辨 |
キク属 Chrysanthemum(菊 jú 屬)の植物については、キク属を見よ。
キク科 Asteraceae(菊 jú 科)の植物については、キク科を見よ。 |
訓 |
漢名菊(キク,jú)は、もと蘜(キク,jú)と書き、鞠に従う。鞠(キク,jú)は窮の意、花の最も遅くさくものだからだ、という(陸佃『埤雅』)。 |
和名キクは、漢名菊の音。 |
『本草和名』菊花に、「和名加波良於波岐」と。
『倭名類聚抄』菊に、「和名加波良与毛木、一云可波良於波岐」と。
『大和本草』菊に、「順和名ニカハラヨモキト訓ス、但それは野菊ナルヘシ、古歌ニハキクトヨメリ」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1806)に、「カラヨモギ ヲトメグサ アキシベノハナ アキシクノハナ クサノアルジ チヨミグサ ヨハヒグサ アキナグサ ノコリグサ チギリグサ モゝヨグサ タテリグサ タキモノグサ オキナグサ チヨグサ 星見草(ホシミグサ) マサリグサ コガネグサ カタミグサ ナガヅキグサ アキノハナ アキクサノハナ ヤマヂグサ イナテグサ アツカイグサ以上古歌ノ名 カハラヲハギ和名鈔」と。 |
属名 Chrysanthemum は「金の花」、もともとシュンギクの形容。 |
説 |
キク(イエギク)は、中国において5-6c.に、シマカンギク D.indicum(花の色は黄)と チョウセンノギク D.zawadskii var. latilobum(花の色は白または淡紅色)との交配からできた栽培品と考えられている(北村四郎)。したがって 野生のものは無い。 |
手もとの中国の工具書を紐解くと、キク(菊花、Dendranthema morifolium)は、栽培種であり野生の類型は無く、各地に数多の品種がある。浙江省嘉興・桐郷などで栽培されている白花品は「杭白菊(コウハクキク,hángbáijú)」又は「白茶菊(ハクチャキク,báichájú)」と呼ばれ、今日の中国で食用に栽培するキクのうち最も著名な品種の一であり、頭花を乾燥して茶(菊茶・菊花茶)にして飲用するものである。 |
誌 |
中国では、キク Dendranthema morifolium の乾燥した花序を菊花(キクカ,júhuā)と呼び、薬用にする。『中薬志Ⅲ』pp.381-385 『全國中草藥匯編 上』 pp.750-751 『(修訂) 中葯志』V/312-316
日本では、生薬キクカは シマカンギク又はキクの頭花である(第十八改正日本薬局方)。
|
中国では、菊は 古くから薬用・食用を中心に栽培され、先秦の文献にさかのぼる。
『礼記』「月令」九月に、「鞠(きく)に黄華有り」と。
『大戴礼』「夏小正」九月に、「栄鞠あり。〔鞠は草なり。鞠 栄(はな)さきて麦を樹(う)う。時の急なるなり。〕」と。 |
菊は、先ずは秋にさく花としての季節感が親しまれた。すなわち、菊は9月9日の重陽の節句と結びつき、重陽花(チョウヨウカ,chóngyánghuā)・九花(キュウカ,jiŭhuā)とも呼ばれ、また九月を菊月と呼び習わす。もともと薬用であったから、漢代以来重陽節に飲み慣わされた菊花酒は 延年益寿の效能があると伝えられていて、ここから菊の一名を延年(エンネン,yánnián)・延壽客(エンジュカク,yánshòukè)と言う。
|
最も早く菊を愛したのは屈原(ca.343B.C.-ca.277B.C.)とされる。すなわちその『離騒』に、「朝に木蘭の墜露を飲み、夕に秋菊の落英を餐{クラ}う」とあり、菊は蘭とともに気高い精神の隠喩となっている(ここから朝蘭餐菊・紉蘭{ジンラン}餐菊の諺ができた。なお、ここに蘭とあるものはフジバカマ)。
鍾会(225-264)は菊の長所を列挙して、「夫れ菊に五の美有り。黄華 高く懸かるは、天極に準ずるなり。純黄 雑らざるは、后土の色なり。早に植えて晩に登るは、君子の徳なり。霜を冒して穎を吐くは、勁直を象るなり。流中軽体は、神仙の食なり」という(「菊花賦」)。 |
しかし、菊と言えば 陶淵明(陶潜、一説に365-427)との結びつきが強い。
その作品に菊を詠って、「廬を結びて人境に在り、而かも車馬の喧{カマビス}しき無し。君に問う 何ぞ能く爾{シカ}るやと、心遠ければ地自ずから偏なり。菊を菜る 東籬の下、悠然として南山を見る。山気日夕に佳く、飛鳥相与に還る。此の中に真意有り、辨ぜんと欲して已に言を忘る」と、また「秋菊佳色有り、露に裛{ヌ}れたる其の英を掇{ツ}み、此の忘憂の物(酒)に汎{ウ}かべて、我が世を遺{ワス}るるの情を遠くす。一觴独り進むと雖も、杯尽き壷も自ずから傾く。日入りて群動息み、帰鳥林に趨きて鳴く。嘯傲す 東軒の下、聊か復た此の生を得たり」と(「飲酒二十首」の内)。
このような田園詩人としての陶淵明に、東晋(317-420)の臣として宋(420-479)に仕えなかった晩節を、その凌霜の菊を愛した心情に重ね、是より菊を詠じ或いは画くに当り、陶淵明は必ずと言っていいほど思い致されていた。
唐の詩人・元稹{ゲンシン}(779-831)が、「是れ花中に偏えに菊を愛するにあらず。此の花開いて後、更に花無し」と詠う(「菊花」)のは、老年晩節の象徴としてである。 |
六朝時代以前の菊は、今日のキク(イエギク) Dendranthema morifolium ではなく、野生のシマカンギク D.indicum(野菊・野黄菊・苦薏)やホソバアブラギク D.lavandulaefolium(細裂野菊・岩香菊・野菊・甘菊)であろうという。これらの菊の花は黄色い。
唐以後の菊は、今日のキク Dendranthema morifolium である。 |
宋代には、多くのキクの品種が作り出され、白・紫・紅などの色が一般化し、庶民の間にまで広まった。この時代には多くの菊譜が著され、范成大『范村菊譜』・劉蒙『菊譜』・史正志『菊譜』・沈競『菊名篇』などから、菊譜の総集である史鋳『百菊集譜』が編まれるに至った。
明の李時珍『本草綱目』(ca.1596)の時には、キクには凡そ百の品種があった。
|
今日の中国では、キク Dendranthema morifolium は薬用に、しかしより多くは食用に、栽培する。その頭花を 菊花(キクカ,júhuā)・甘菊花(カンキクカ,gānjúhuā)・藥菊(ヤクキク,yàojú)・茶菊(チャキク,chájú)と言い、これを食用にするために リョウリギク(料理菊)が作られている。
産地によりさまざまの商品名で呼ぶ。河南産の懷菊花、安徽産の滁菊花・亳菊花などがあるが、なかんづく浙江省に産する杭菊花(コウキクカ,hángjúhuā)が著名。頭花を干して、菊茶(菊花茶)として飲用にする。 |
|
日本に菊が入ったのは、文献には仁徳天皇73年といい、一説に奈良時代初といい、一説に平安時代の初と云うなど、数説がある。奈良時代に菊花の詩があるが、知識だけが入ってきたものか、実物が渡来したのかについて、意見が分れるようだ。
なお、重陽(9月9日)の節会に菊酒を飲んで長寿を祈るなどの中国の風習は、そのまま日本にも入った。 |
菊は、『万葉集』には詠われない。
平安時代には、栽培・観賞された。『古今集』に、
うゑしうゑば 秋なき時や さかざらん 花こそちらめ ねさへかれめや
(在原業平(825-880)「人のせんざい(前栽)に きくにむすびつけてうゑけるうた」)
久かたの 雲のうへにて みる菊は あまつほしとぞ あやまたれける
(藤原敏行「寛平(889-898,宇多天皇代)御時 きくの花をよませたまうける」)
露ながらおりてかざさむ菊花おいせぬ秋のひさしかるべく
(紀友則「これさだのみこ(是貞親王,?-903)の家の歌合(893)のうた」)
うゑし時 花まちどほに ありしきく うつろふ秋に あはむとやみし
(大江千里「寛平御時 きさいの宮の歌合(893)のうた」)
おなじ御時(891) せられける菊合に、
すはまをつくりてきくの花うゑたりけるに くはへたりける歌(四首)
秋風の ふきあげにたてる しらぎくは 花かあらぬか 浪のよするか
(菅原朝臣「ふきあげのはまのかた(形)に きくうゑたりけるをよめる」)
ぬれてほす 山ぢのきくの 露のまに 早晩(いつか)ちとせを 我はへにけん
(素性法師「仙宮に菊をわけて人のいたれるかたをよめる」)
花みつゝ 人まつ時は 白妙の 袖かとのみぞ あやまたれける
(紀友則「きくの花のもとにて人のひとまてるかたをよめる」)
ひともとと 思ひし花を おほさわの 池のそこにも たれかうゑけん
(紀友則「おほさわの池のかたにきくうゑたるをよめる」)
秋のきく にほふかぎりは かざしてん 花よりさきと しらぬわが身を
(紀貫之「世中のはかなきことを思ひけるをりに、きくの花をみてよみける」)
心あてに おらばやおらん はつしもの をきまどはせる 白菊の花
(凡河内躬恒「しらぎくの花をよめる」、『百人一首』にも)
いろかはる 秋のきくをば ひととせに ふたたびにほふ 花とこそしれ
(読人しらず「これさだのみこの家の歌合のうた」)
秋をおきて 時こそ有りけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされば
(平貞文「仁和寺にきくの花めしける時に、
うたそへてたてまつれとおほせられければ よみてたてまつりける」)
さきそめし やどしかはれば きくの花 色さへにこそ うつろひにけれ
(紀貫之「人の家なりけるきくの花をうつしうゑたりけるをよめる」)
おとにのみ きくの白露 よるはおきて ひるは思ひに あへずけぬべし (素性法師)
わがやどの きくのかきねに おくしもの きえかへりてぞ こひしかりける
(よみ人しらず)
西行(1118-1190)『山家集』に、
こよひはと こゝろえがほに す(澄)む月の ひかりもてなす きくのしらつゆ
君がすむ やどのつぼ(坪)をば きくぞかざる
仙(ひじり)のみや(宮)とや いふべかるらん
いくあき(幾秋)に われあ(逢)ひぬらん ながつき(九月)の
こゝぬか(九日)につむ やへのしらぎく
秋ふかみ ならぶはな(花)なき 菊なれば
ところをしも(霜)の お(置)けとこそおも(思)へ
ませ(籬)なくば なにをしるしに 思はまし 月にまがよふ しら菊の花
『新古今集』に、
いまよりは又咲く花もなきものをいたくなおきそ菊のうへの露 (藤原定頼)
時雨つつ枯れ行く野べの花なれば霜の籬(まがき)に匂ふ色哉 (醍醐天皇)
山川の菊のした水いかなればながれて人の老をせくらん (藤原興風)
|
美術工芸において菊が意匠されるようになるのは鎌倉時代。
承久年間(1219-1222)、後鳥羽上皇は菊を皇室の紋とした。ただし、菊の花が皇室の紋章と定められたのは明治4年(1871)で、これより菊花紋は皇室以外では使用を禁じられた。 |
一般に菊の栽培が普及したのは江戸時代。例えば「肥後菊」を見よ。
元禄(1688-1704)以降、菊の園芸書が多く出版されている。 |
芭蕉(1644-1694)の句に、
白菊の目にたてゝ見る塵もなし
起あがる菊ほのか也水のあと (草庵雨)
草の戸や日暮てくれし菊の酒
蝶も来て酢を吸ふ菊のすあへ哉 (キクの花を食用にしたことが知られる)
折々は酢になるきくのさかなかな
菊の香や庭に切(きれ)たる履(くつ)の底
初霜や菊冷初(ひえそむ)る腰の綿
秋をへて蝶もなめるや菊の露
朝茶のむ僧しづかさよ菊の霜
菊の花咲や石屋の石の間(あひ)
菊鶏頭きり尽しけり御命講
稲こきの姥もめでたし菊の花
寒菊や粉糠のかゝる臼の端
菊の香やならには古き仏達
菊の香やならは幾代の男ぶり
山中や菊はたお(手折)らぬ湯の匂
蕪村(1716-1783)の句に、
白菊の一もと寒し清見寺
いでさらば投壷まいらせん菊の花
村百戸菊なき門(かど)も見えぬ哉
ほきほきと二もと手折(たをる)黄菊哉
また、
菊を切る跡まはら(疎)にもな(無)かりけり (其角,『猿蓑』1691)
|
江戸時代後期には、しばしば品評会が催され、多くの新しい品種が生み出された。文化・文政時代(1804-1830)には、菊人形が作られるなど、日本的な菊文化が頂点に達した。
P.ロティ『お菊さん』(1887)や、R.ベネディクト『菊と刀』(1946)などに見られるように、かつて欧米人には日本は the Land of Chrysanthemum としてうつっていた。
今日では、一般に日本を象徴する花は桜と菊とされる。 |
月に沈める白菊の
秋冷(すさ)まじき影を見て
千曲(ちくま)少女(をとめ)のたましひの
ぬけかいでたるこゝちせる
(伊良子清白「秋和の里」より、『孔雀船』(1906)所収)
人形の秋の素肌となりぬべき白き菊こそ哀しかりけれ
(北原白秋『桐の花』1913)
はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば楽しも
(1946,齋藤茂吉『白き山』)
佐藤春夫「故園晩秋の歌」(1924)
|
ヨーロッパには、1789年中国から八重咲きのキクが入る。1861年、フォーチュン R.Fortune(1812-1880)は江戸から様々な花をさかせるキクを、ロンドンに送った。 |