〔永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。〕
八月十一日。むさしの國かつぬま〔東京都青梅市勝沼〕といふ處に至りぬ。三田彈正忠氏宗此處の領主たり。兼てしも白川の道々のこと申かよはし侍しかば。こゝのやすらひ十五日に及り。連歌たびたび有。
きりはたゝわけ入八重の外山かな
此山家。うしろは甲斐の山。北はちゝぶといふ山につゞきて。まことの深山とはこゝをや申べからん。此山ふかきこゝろなるべし。おなじ處に山寺あり。前はむさし野なり。杉本坊といふにして。
霧をふく野風か花に朝くもり
むさし野の景氣ばかり也。
同十五日。氏宗おなじく息政定これかれ駒うちならべ。むさし野の萩薄の中を過行がてに。長尾孫太郎顯方の舘はちがた〔埼玉県大里郡寄居町鉢形〕といふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
むさし野の露のかきりは分もみつ秋の風をはしら川の關
この比。越後の國鉾楯により。武藏上野の侍進發のこと有て。いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。翌日日たけて。長井〔埼玉県大里郡妻沼町〕の誰やらんの宿所へと送らる。夜に入ておちつきぬ。明る朝。利根川の舟渡りをして。上野の國新田の庄〔群馬県新田郡〕に禮部尚純隱遁ありて。今は靜喜かの閑居に五六日。連歌たびたびにおよべり。
〔この後北行して日光に至るも、戦乱と大雨に阻まれ白川行きを断念、北関東を遊歴。10月、鉢形より菅谷に入る。〕
鉢形〔埼玉県大里郡寄居町鉢形〕のたちにして。
霜をへん生さきしるし松の千代
馬庭豐前守重直興行せし也。顯方いまだ少年の行末はるかなることを賀し侍る計也。又一座興行。發句。顯方にかはりて。
さえし夜をかさねてけさや薄氷
連歌はてゝ酒など有て夜更侍りし也。當城逗留の旅宿隨意軒といふにして。
神無月くれさりし秋か宿の菊
庭の菊秋を殘せるさま成べし。鉢形をたちて。須賀谷〔比企郡嵐山町菅谷〕といふ所に小泉掃部助の宿所に一日休らふ。人數はなくて。懷紙表八句。
冬かれや萱か下葉の秋の風
むさし野の東野中のほとりなるべし。霜枯の景氣ばかり也。あたりの平澤寺〔嵐山町平沢〕にして。
こほりけり松にうこかぬ岩根水
本尊は不動尊。池にふりたる松有。又かつぬま〔東京都青梅市勝沼〕につきぬ。建長寺天源庵は。横川嶽の開山大應國師遷化の舊跡也。いぬる五とせばかりのさきのとし回祿す。庵領なども久しく知行して。およそなきが如くなり。紫野大徳寺衆中。たびたび申くださるといへども。とかくことゆかず。此折ふしに堅眞と云人多年の知人にて。うちうちに申つたふること有て。江戸の舘に六七日におよべり。連歌三百韻あり。
霜寒き松ゆく田鶴の朝日かな
遠山にこゝろはゆきの朝戸かな 上杉建方
雪はけさ水につもれるみそれ哉
こゝろは雪のといへるあたりふるめかしくて。しかも又めづらしげ也。一日づつ隔て。おもしろかりし會席也。すなはち天源庵領二箇所かへしつけらるべきよし。嚴重の事也。都鄙いまの折ふしには。まことに希有の事なるべし。品川〔品川区〕といふ津にしる人あり。和泉堺よりきて。此六七年すめりとかや。長途窮屈。五六日休息して。ある夕なぎに海の邊にありきて歸りて。
夕なきか冬に入江の春かすみ
江春入二舊年一といふ句をおもひ出て。なぎたる夕のおぼろおぼろと見えわたるさまにや。安房上總下總めのまへの處なるべし。ある人安房のきよすを一見せよかしとさそひしに。いづこかさしてとおもふ世なれば。たち歸り江戸のたてのふもとに一宿して。すみだ川の河舟にて。下總國葛西〔葛飾区・江戸川区一帯〕の庄の河内を半日計よしあしをしのぐおりしも。・・・
〔これより下總國葛飾・検見川・市川などを遊歴。〕
江戸に歸りつきて又の日舘にして。
月や江による波たゝむ朝こおり
廿八日。品川へとての間に旅宿の古梅軒一折のよし有しかど。發句ばかりにて。
さきてかつ春をまちとれ梅の花
此軒號によそへて侍る計也。品川に兩日あしをやすめ。きつき〔川崎市中原区木月〕といふ里あり。諸西隼人佐宿所一宿して。鎌倉ちかきあたり齋藤新左衞門光吉宿所に。一日めを煩ひて逗留。・・・
〔12月初めまで鎌倉に逗留。〕
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