森川許六『風俗文選』より、「百花ノ譜」

作者

森川許六(1656-1715)

作品名

「百花ノ譜」、 『風俗文選』(有朋堂文庫本)所収

成立年代

『風俗文選』は宝永2年(1705)自序

その他

 作者許六は、江戸時代前・中期の俳人。姓は森川、名は百仲、字は羽官、通称は五介、号は菊阿仏、五老井など多数。近江彦根藩士。

 引用文中、( )内は仮名、[ ]内は註、いずれも有朋堂文庫に従う。



當世の人の花過ぎ、古人の實すぎたる、いづれの時か、花實兼備の世あらん。

梅の風骨たる事、水陸草木の中に、似たる物はあらじ。十月一陽の氣[一]に、燦々(さんさん)たる江南の玉妃、まづえめるより、生涯を物ずきにくるしみ、風流のほそみに終る。是を色にたとへていはゞ、吉野、高尾などいふべき遊君の、心おとなしく、名を恥ぢ、いき過ぎたる心より、相火(さうくわ)[二]の高ぶり、かたち瘦(やせ)ぎすに涙もろく、きのふの我に飽(あ)きける心より、一たび著たる衣類調度など、ふたゝび目にもかけず、人に打ちくれ、金くれる男なれども、愚癡なるにはすりぬけ、請出さるゝ場所をはづして、はずんだる男[三]の一言に、百年の富貴をかへたり。借錢の利に利を重ね、やうやう盛も過ぎたる頃、生前の本望を遂げて、幽(かすか)なる住居に、朝夕の烟をたてても、猶物ずき風流の細みに富めり。子さへなくて、夏冬の寢覺もやすし。待つ事もなくて、世を靜にいとなみ、同穴のかたらひを、なせる人には似たり。
  [一] 十月に至り陰極りて一陽初めて生ず
  [二] 肝氣
  [三] いきごみて熱中する男

紅梅といふ花は、一度(ひとたび)彼岸參の心を動かし、未開紅(みかいこう)の光をはなちぬれども、やがて莟(つぼみ)くだけ、花ひらけてより、日々におとろへ、雨風を帶び、夕日にしらけて、つぼめる色を失ふ。たとへば三十(みそぢ)過ぎたる野郎の、大躍(おほをどり)[四]につらなり、心ならず風流をつくりたる心地ぞする。
  [四] 一座總出の踊

櫻は全盛の傾城なり。天晴(あっぱれ)當風[五]に打ちこみたる風俗、行末明日のたくはへの、一點もなき花なり。
  [五] 當世風

海棠は、同じく時を得たる野郎の、大夫と仰がれ、勢ひもさかんに、世の中猛(まう)とのゝしれども、質素にしてうるほひ少(すくな)し。誠に香のなき一色の、缺けたる心地こそ本意なけれ。

梨花は、本妻の傍に侍る妾のごとし。よろず物おもひにうちしづみ、常に人の下にたてるがごとし。

椿は、たゞありの人の、本妻とむかへたるが、端手(はで)なる風俗をも似せず、ありがかりに家を治め、身を修めるをもととし侍れども、さすがに女色なれば、うす化粧に紅粉をたえさぬ身持のよき花なり。

桃は、元來いやしき木ぶりにして、梅櫻の物好(ものずき)、風流なる氣色(けしき)も見えず。たとへば下司(げす)の子の、俄に化粧(けはひ)し、一戚(いつせき)[六]を著飾(きかざ)りて出たるがごとし。爛漫(らんまん)と咲きみだれたる中にも、首筋小耳のあたりに、産毛(うぶげ)のふかき所ありていやし。
  [六] 一式と同じくありたけの美服

藤は、執心のふかき花なり。いかなるうらみをか下に持ちけん、いとおぼつかなし。

山吹のきよげなる、眉目容(みめかたち)すぐれ、鼻筋おしとほり、襟廻(えりまは)り綺麗(きれい)に生れつき、たゞ透融(すきとほ)るなんどいへる許(ばか)りにて、さして命をかけてと思はざる類(たぐひ)こそ、女の本意(ほい)とはいふまじけれ。

長春(ちやうしゆん)[七]、薔薇(しやうび)のたぐひは、紅白うつくしく、粧ひたるには似たれど、元來いやしき花の、殊にさかり久しきこそうたてけれ。たとへば惣嫁しいへる辻君の、日のくるゝを待ち兼ね、世上に徘徊し、物心おぼえてより、其ながれをたてて、五十にちかき頃まで振袖を著(ちゃく)し、始もなく終もなきこそうるさけれ。
  [七] 四季咲の薔薇

牡丹は、寵愛時を得たる妾(てかけ)の、天下にはゞかれる、心なげに打ちほこり、常は嫉妬(しっと)我執(がしゅう)のいかりふかくして、靑天にむかつて吐息(といき)をつきたる風情に似たり。

芍藥といふ花は、いまだ嫁せざる娘の、よはひも二八にあまりたるが、ねよげに見ゆる心地ぞする。

罌粟(けし)は、眉目容(みめかたち)すぐれ、髪ながく、常は西施が鏡を愛して、粧臺に眠り、後世なンどの事は、露ばかり心にかけぬ身の、一念のうらみによりて、ごそと剃りこぼして[八]、尼になりたるこそ、肝つぶるゝわざなれ。
  [八] 花散りたる後の罌粟坊主をいふ

杜若は、のぶとき[九]花也。うつくしき女の盗(ぬすみ)して、恥をしらぬに似たり。
  [九] づぶといといふに同じ

あやめは、小づくりなる女の、目を病める心地ぞする。

百合花(ゆり)は數品おほし。笹ゆり、博多(はかた)ゆり、鬼百合、色は異なれども、元來一種にして、生得いやしき花なり。たとへば輿車(こしくるま)にのれる位なければ、かゝへ帶[一〇]つよくからげあげ、上(かみ)づり[一一]に脛(はぎ)たかく、あゆみ出たる女に似たり。
  [一〇] しごきの腰帶
  [一一] 衣服のつり上りたる也

姫百合は、十二三ばかりなる娘の、後(うしろ)に帶うつくしく結びたるがごとし。

合歡(ねむ)の花のねぶげなるは、深閨の中に縫物をかゝへ、晝眠る女に似たり。過ぎにし夜半の、いかなる事かありて、かくはねぶりけん、いとおぼつかなし。

其下に、晝顏の目を覺したるは、二十(はたち)にちかき頃まで、男心をしらぬ女の、はじめて宮づかへに出たる頃の、よろづつきなきありさまならんか。

紫陽花(あぢさゐ)の花は、色白に肥えふとりたるが、ちかくよりて見れば、白病瘡(しろいも)のあとのすき間もなくて、興さめてやみぬ。

蓮は、うつくしき所すくなし。たとへば上手の繪にかける天人の顏にひとし。どこやら佛めきて、心こそおかるれ。

卯の花は、第一名目よし。時鳥の來べき頃は、かならず咲くと覺えたるこそをかしけれ。うつ木(ぎ)の花といふ人は、無下の事なり。卯の花月夜の夕すゞみに、しろめなる衣裝に、黑き帶仕(し)なしたる女の、ふと打ちつれたるが、行違ふ程もなく立ちわかれて、顏のほどもおぼつかなく見かへせば、はや尻影ばかりを、見送りたる心地ぞする。何方へか通ふらんといとなつかし。

朝顏の盛すくなきは、よき女の常は病がちに打ちなやみ、土用八專[一二]のかはるがはる、隙なきに打臥し、一月の日數も、廿日はかしらからげ、引込みたるが、たまたま空晴れきり、朝日さし出たるに、心地よげに打粧ひ、衣裝などあらためて、ほのめき出たるに似たり。
  [一二] 土用は十八日を一期として一年に四度あり、
      八專は壬子の日より癸亥の日に至る十二日の間にて一年に六度あり

鷄頭は、和(わ)[一三]のなき花なり。よからぬ女の、一筋に貞女をたてるがごとし。
  [一三] やはらぎ、やさしみ

らにの花は、蝶の羽に薫物す[一四]と、先師の腸より搜し出し侍るこそ、其佳人の面影もなつかしければ、これに先(せん)をこされて、口を閉じていはず。
  [一四] 芭蕉、「蘭の香や蝶の翅にたきものす」

鳳仙花といふ花は、是もけばけばしく、紅粉(べに)鐵醬(かね)を粧ひ、人の眼を驚かすやうなれども、手に携へて見るべきものにもあらず。木ぶり葉つきのいやしき事は、彼の出女の李喰ふ口もとには似たり。

女郎花は、いにしへより女にたとへ、我落ちにき[一五]と、法師の破戒によめるは、女郎の二字になづめるならんか。初秋の風によろめき立てるも、菊にさきをかけられたらんは、手柄やすくなからんと、おもへる物ずきこそやさしけれ。此女郎花といへる物、花にしてはちと請取りがたし。たとへば聲のうつくしきを撰みて、小歌を習はせ、髪をおろして是を比丘尼といふ也。大率(おほむね)は女色にして、かざりなければ、大象をつなぐべき執心のきづなもなし。さればとて、男色のかたづまりたる[一六]類にもあらで、男女の中にたてる風俗也。此花百花に類する姿なし。古人蒸粟(むせるあは)のごとし[一七]といへるは、草實のたぐひに比すべきか。莖(くき)も花も等(ひと)しく黃にして、下葉すくなによろめきたるは、彼比丘尼のたぐひとや見ん。
  [一五] 僧正遍照、「名にめでて折れるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな」
  [一六] 窮屈の意
  [一七] 源順、「花色如蒸粟、俗呼爲女郎」

桔梗は、其色に目をとられり。野草(やそう)の中に、おもひかけず咲き出たるは、出家の草の戸に、よき娘見たる心地ぞする。

萩はやさしき花也。さして手にとりて愛すべき姿はすくなけれど、萩といへる名目にて、人の心を動かし侍る。たとへば地下(ぢげ)の女の、よく歌よむときゝつたへたる、なさかしさには似たり。

菊の隱逸なる[一八]は、和漢ともに名にたちたる花なれば、あらためては言ひがたし。風流物好(ものずき)、目だちたる事を嫌へるは、よき女のをつとなどにおくれて、閑なる片はづれに立ちしのび、よはひもいまだ三十(みそぢ)に、なるやならずの盛なれば、さすがに髪などおろすべくもあらず。たゞ一人(ひとり)あるをさなきものに引かれて、心ならず世中に住み侘びたるを、はづかしとおもへる人には似たり。
  [一八] 周茂叔愛蓮説、「菊者花之隱逸者也」

寒菊の霜をいたゞき、雪をかづける中に、忽然と精骨を盡したる[一九]は、天地創造の行はれざる所はなしと感ぜり。たとへば越路の果のはてにも、三國、金津[二〇]、富山(とやま)、高岡などいへる所々に、おもひかけず風流のある心地ぞする。
  [一九] 精力を發揮すること
  [二〇] 越前にあり

冬牡丹のしやれ過ぎたる、たとへば大津伏見など、分内[二一]狹き所の遊女町、工商の家ゐ軒をならべ、打交りたれば、白地(しらぢ)のむすめども、傾國の風俗を見習ひ、養父入(やぶいり)、生身玉(いきみだま)の里がへりに、しやれを盡し、一向(ひたすら)遊女の立振舞に似たれば、兩親(ふたおや)いかばかり悲しと制しつらん。時と所をしらざるは、大きなるいき過ならん。
  [二一] 境域

當世の人の花過ぎ、古人の實過ぎたる、嗚呼いづれのときか、花實兼備の世あらん。或(あるひと)問(と)うて云く、當時人情の花にうつり、鳥に心を驚かしやすきは、ことごとく此文章に盡きて、はじめて人の耳目を動し侍る。今先生が歎く所の俳諧の實は、いかなるをいふにかあらん、おぼつかなし。はやくこれを明(あか)し、俳諧大道に悟入させよ。答へて云く、夫れ實のかたちをいはん。荔子(れいし)の顏のぶつぶつとしたる、實性(じつしやう)の人の髭(ひげ)尤(とがめ)よりくるしく[二二]、若(もし)暑(あつ)き題の歌よまんとおもはゞ、はやく此もとに立寄るべし。姫瓜の丸顏は、さんちや風[二三]の俤あり。飄(ふくべ)の靑ざめたる、熟柹のあから顏、下戸上戸はふるくして[二四]、今様は是をとらず。日やけの梨のじやぐれたる[二五]座頭のあたまこそ、俳諧の實には究(きはま)り侍る。 
  [二二] 荔子の如くぶつぶつの吹出物ある顏は堅氣の人の無精髭はやしたるより暑苦しと也
  [二三] 散茶は下級なる遊女
  [二四] 下戸上戸に譬ふるは古しとの意
  [二五] しやくれといふに同じく凹凸不齊なるをいふ



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